Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

橘川幸夫氏と川田十夢氏という宇宙空間への衛星発射実験その1:チェーン

自分の中でいつの間に悪い印象を帯びるようになったのか?元々はフラット、ニュートラルなはずの言葉がある。例えば、本部があって複数店舗が展開されているチェーン店がそうだ。昨年は、チェーン店にまとわりつきがちな悪い印象について考えることが多かった。そしてますます冒頭の思いを強くすることになった。
 
確かに、チェーン店という存在には「中央に売上が回収される、画一的なオペレーションやサービス」といった悪い印象の明確な根拠となる一面も無いわけではないが、「革命は体制側に味方を得なければ成功しない。」という橘川幸夫氏の発言を思いだしていたのか、「そんな悪いチェーン(連鎖)を断ち切るのなら尚更、これらチェーン店の内部と共にではないとおかしいのだ。」という気持ちが沸き起こっていた。
 
少し急ぎ過ぎたようだ。ともかく、私は高円寺や下北等について説明される時高い確率で聞かれる「素敵な個人店が今でもたくさん元気で営業しており、チェーン店には厳しい土地といえます。」のような一文を目にする度、(むしろ個人店の中にだってチェーン店っぽいものがあるじゃないか。その逆も然りだろう。そういったものこそ取り上げてほしい。)といったチェーン店が予め悪いもの側に回っている構図、固定観念に反発を覚え、チェーン店の中にこそ、個人店っぽさという個性を見たいと思うことが多い。
 
だが、その舌の根が乾かぬうちに、全くもって私自身が別の固定観念に嵌っていることにも気付く。それは、川田十夢氏の一活動であるAR三兄弟が日経新聞2014年1月3日朝刊の特集に登場しているということを翌4日Twitterで知った時、「社会人なら日経新聞を読まなきゃ」という固定観念からは逃れていた10年の一方で、駅やコンビニで買うものという固定観念は持ってしまっていたからだ。慌てて向かった先がコンビニなだけでなく、該当の日付のものが当然回収されているのに気付くも、すぐさま「新聞販売店に行って売ってもらえばいい。」という、本来なら瞬時に浮かんでいそうな考えに0.8秒以上を要する有様だった。
 

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考えてみれば新聞販売店、さらにはピザ屋共に、まさに販売店なわけで卸売専門でもない限り、そこに出向いて行けば買える(売ってもらえる)はずなのだが、共に配達されるもの、やってくるものという一方向、つまり固定観念に覆われがちだった。これは些細なようで重要な発見だと、年明け4日目にようやく別の年が明けたような気にもなった。
 

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ここでさらに続けると、口にしないでも意識に上っていることも含めれば、この2つの業態には共通点がもう一つあって、それはピザ屋同様、新聞屋と呼ばれる通り、屋が付いた呼称を持つということだ。こういった「もの、職業+屋」の物言いにもまたチェーン店同様、冒頭に挙げた「いつの間にやら悪い印象を帯びるようになった」響きが伴っているように思える。そして、「○○屋と呼ばない」のではなくて「○○屋」の物言いにいつの間にやら帯びてしまった悪い印象自体を意識し「ここから始めなければならない」(橘川氏)のだと思う。「○○屋さん」と表面上丁寧に呼んでみたところで、それは偽装でしかないはずだ。どんな呼び方をしようが、勝手に配達前、或いは関わる前の向こう側に対象を追いやっているという思考停止には変わりがないはずだ。それは境界の無い所に固定的な境界を設けようとする行為に思える。それは今や橘川氏や川田氏の存在に失礼な気がする。

 
さらにもう一つ言えば、本来、屋と屋は連なっていて、己も○○屋でしかない、○○屋であるべき、という個であることを志向するチェーンにも手を伸ばせと思うのだ。日めくりをめくる以上、その手を伸ばす行為が始めるということではなかったか。
 
橘川氏と川田氏というチェーン、それはダブルバインドではない、それは宇宙という線であり点である空間だ、に引っ張られた目出度い年明け。このことについて、まだまだ書かねばならないと思う。私もKというイニシャルは共通しているのだ。(続く)