Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

旅に出る理由があり、書く理由がある。

忘れないということ、あるいは、忘れるということがいかに難しいか。つまり、納得を覚えられるような続きをそのまま続けることがいかに稀なことか。

例えば、数年に数回程度の頻度で新幹線の同一区間という閉ざされた空間に身を置いた場合、前回の乗車から数か月や1年以上が経過していても昨日のような感覚に陥ることがある。それは、前回も同じようなことを考えたなと思い出しても、その思考の正確な軌跡はもちろん、その時自分がどの席でどんな服を着て、車内外はどんな光景だったのか、断片的には覚えていても総合的には間違いなく忘れていて、ぼんやりとしているが故の感覚なのかもしれない。ただ、体なのか脳なのかは分からないけれど、この感覚なら忘れていないという二重構造。

それならと、このような特定の空間のみで、期間を空けて続きを考える行為(執筆)があっても面白いと思った。もっとも、この行為の持続力には本人にとっての面白さが不可欠だろうから、冒頭に挙げた納得ということが前提となるのならば、思考時間(文量)以上に、考えにケリをつけたという意味での思考の節が問われるだろう。

では納得を覚えられないけれど、続きを続けたい時にはどうすればいいのか?それは、間違いのない続きに立ち返ることではないかと思う。車内外といった物理的な間仕切りとは無関係に、どこまで行っても自分と他者とは切り離された関係のままだが、それでも切り離されていないものとして、過去からの歩み、橘川幸夫氏の言葉を引用するならば「人類史」があり、その上を意識的に走行することは新幹線よりも我々が得意とすることのはずだ。人類史から言葉を放とうとすること。もちろん、これは何も古代を思うという単純なことに終始するものではない。

思えば、思考(文章)の節は季節と似ている。「旅に出る理由」があり、書く理由がある。今日久しぶりなんだろうけど、これこそまるで昨日のような、いつだって、切り離された関係の為に人類史からの言葉を放ってくれる小沢健二氏の姿を観て、考えたこと。

転がる点と線。日常の延長としてストーンズを体験。ザ・ローリング・ストーンズ 14 オン・ファイアー ジャパン ・ツアー

2014年3月6日、久しぶりに東京ドームという閉じている場所に向かう中、眼前の長蛇の行列に対して、心を完全に開くことの出来ない個(という閉じた点)が一時的に一定の範囲内に集中しているという意味で点のままの状態と、たとえこの範囲外にいたとしても個は社会にある以上、何らかの連なりであることから抜け出せないという意味で線の状態の両方を考えていた。それらは「そもそも、閉じていない状態ってあるのか?いや、閉じている状態だってあるのか?いや、閉じている点と閉じていない点、ならびに、閉じている線と閉じていない線の両方があるんじゃないのか?」という疑問となって浮かんできた。そして、この点と線を包み込んでいるのが地球や日常なのだとしたら、前4態(閉じている点、閉じていない点、閉じている線、閉じていない線)を全て兼務していて、いずれか一方のみであることは出来ないんだなと思った。そして、それならば、人もまたこの4態の兼務なら出来るということではないかと少し落ち着きもした。

「人は個人の歴史と人類史の2つの線を生きている。」や「人は動物としての生と社会的な生の2つを生きている。」とは橘川幸夫氏の言葉だ。つまり、個人の歴史も人類史も、動物としての生も社会的な生も線のような点なのか線のような点なのかは分からないが、4態を伴ったものなんだろう。日常を完全に傷つけてはしまわないけれど、確実に切り取り線を残していくという点で、天才とはまさに点線のようだ。ストーンズをきっかけに、再びここでも橘川氏が登場していた。

東京ドームの中の話に移ろう。この日の体験としてのストーンズという存在が日常の延長に思えたのも、この4態について、橘川氏の言葉も元にして気付き始めていたからだろう。意外な程、冷静に興奮している自分に気付いていた。彼らを直接眼前に捉えるのも3回目とはいえ、前回から既に11年が経過している。この間YouTubeの動画で熱狂してきたのだから、もっと圧倒的に興奮して良さそうなものなのに、安心感や感謝のような気持ちが私の体を操作していた。

ライブが始まった。1曲目からJumpin' Jack Flashだ。2曲目以降と比べると少し立ち上がりがもたついたような、どこかサウンドチェックのようでもあった。このこともあって、前述の日常感は強まり、まるで来月も東京や他県のどこかで、ライブを行っているような既視感さえ覚えていた。

3曲目のIt’s Only Rock ‘N’ Roll (But I Like It)では、中央の巨大ビジョンに(間違いなく最新の技術によって映し出された)60年代から始まる、彼らのライブの観客の様子が次々と映し出された。ハイドパーク、オルタモント、東京ドーム。数十年間という異なる時代も、彼らも、観客も、そして今回の観客、つまり私も、みな4態を兼務していることがありありと映し出されていた。誰もが主役であり脇役だ。この50年間に登場した観客が私を観ていたし、私を観てと言っていた。みんな、鏡だったのだ。鏡よ鏡、ありがとう。

そんな巨大ビジョンの両脇で、見た目にもまさに脇役であるかのように、ストーンズは黙々とプレイを続ける。宛ら田畑を耕しているような、美しい労働を眺めているような時間が流れた。そうか、彼らはこの日常の光景を包み込んできた大きな点、観客にとっての閉ざされた場所でもあるのだ。あるいは、ここでまた橘川氏の言葉を流用するなら「かつて海にいた生命が陸に上がった時、自分の中に血液や体液として海を取り込んだ」ように、彼らの中に観客を取り込んだのだと思った。先の橘川氏の言葉は「新しい環境に移行する時には、それまでのものを自らの中に持つ必要がある。」と続いている。つまり、彼らは次の環境へと移行し続けている現役なのだ。新曲の Doom and Gloomがまさに最新型という形容を付けてもおかしくない、かっこいい響きのロックとなっているのも当然だ。この曲では、巨大ビジョンにGimme Shelterの世界のような悲観的な映像が流された。思えば、Gimme Shelterを2回聴いたようなライブだった。本当に、来月も会えそうな気にますますなってくる。

映像と映像の合間に、数百メートル先のミック・ジャガーに視点を移す。表情が見えない影絵のような光景だからこそ分かることがある。あるいは実際の大きさとは無関係な巨大さがある。そこには、鷹か豹かといった、鋭利な動きが輝きを放っていた。遅れてきたわけではないが、青年だとしか言いようがない、一緒に体験した友人が終演後「ミック・ジャガーはロックンロール・サーカスの時の動きと全く一緒だった。」と興奮していたのも頷ける光景だった。

ローリング・ストーンズとは本当にうまく言ったものだ。まるで、今を予見して名付けられたようだ。悲壮感やさみしさが意外な程無かったのも当然か。彼らは水面を転がる石のように接して離れるを繰り返す、点と線の点滅という連続性そのものの存在なのだ。

とはいえ、連続性に贅沢な悩みを覚えたのも確かで、次々と曲が連続するのに対して、気持ちがうまく切り替わっていかないこともあった。今日はこの数曲だけ、あとは彼らのトーク、といった妄想が浮かんだりもした。けれど、音楽産業という作品発表の連続性を生命維持装置とする仕組みのおかげで、こうして彼らを体験出来ているのだから、と思い直した。

連続性と言えばこの日、曲の連続性でうれしかったことが一つある。それはアンコールでの2曲、You Can't Always Get What You Want と(I Can't Get No) Satisfactionだ。これもまたまた橘川氏の言葉だが「生きるとは、何故生きるのかを考えることだ。」をこの2曲が連続することで表していると思ったのだ。「いつも欲しいものが手に入るとは限らない。」は「欲しいものを手に入れなければならない。」という強い欲求だが、たとえ欲しいものを手に入れたと思ってもそれで「満足出来ない。」という、欲しいものは何か考え続けるという態度に思えるからだ。

目が点になんてなっている暇は無かった。いや、無い。点線だとしても点を転がして線にしてしまえばいい。綻んだようないびつな線だとしても、線を転がして点にしてしまえばいい。

橘川幸夫氏と川田十夢氏という宇宙空間を航行する中での気付きその1:組み合わせという新しさ

川田氏の言葉としてのマッシュアップ

もはや川田氏の匂いまで覚える言葉にまでなったものにマッシュアップがある。それは、氏自身の活動によって意味が拡張されている言葉だといえるが、だからといってその拡張する範囲にあぐらをかいていればあっという間に圏外へと弾き出されてしまうから、時々はその密度を構成でもって確かめる必要がある。ではどうやって?ということだが、その分かりやすい方法のひとつは、このカタカナをひらがなに置き換えてみるということだ。

すると、一言で置き換えられそうなものとして「組み合わせ」が浮かぶ。もちろん、これだけではまだまだ不足している。こうして程なく、ああそうか、マッシュアップって(組み合わせることによって)良くなることを前提にしているんだったな、と気付く。

具体的なものを思い浮かべると、さらに何がどう良くなるのかが考えやすい。つまり、ここで解釈を試みる「マッシュアップ=良くなるための組み合わせ」に寿命が与えられ、さらにその寿命を延長出来ることになる。早速タイムリーなことにちょうど良いものがあった。それはゲームだ。

ちょうど氏がこうして「ゲームセンターわたなべ」でゲームを楽しんでいることが分かったおかげで、この記事を着想するきっかけを得ることが出来た。前置きはこの辺で終了し、早速プレイすることにしてみよう。

よくなるための組み合わせの種類を考えてみる

  1. 個々の中にある「良い(と思われる)要素」を組み合わせる・・・まず浮かんだのがこれ。相対的というか、組み合わせる対象の中でも良い要素ということが良いという判断の前提となるだろう。
  2. 2つ(のゲーム)を重ねて1つのものとする・・・例えばエレベーターアクションシティコネクションだったりゼビウスタイムパイロットだったり、完全にそのまま1つとならなくても、なるべく個々の形式を残した組み合わせも考えられる。
  3. 2人で別々にプレイをして1つのものとする・・・別々の画面(モニター)を眺めながら、時には別々の画面内(シチュエーション)でプレイをしていくことが互いに関連し合って1つ(のゲーム)を導くというものもまた考えられる。あ、そんなゲームはとっくにあったか。でも、ここで挙げるのは「元々別のものとして作られたもの」だ(と気付くw)。なるほど、意外性にも「良い」ということと関連し合っているものがあるようだ。

気付き

さっそく、上記のグループ化というか細分化で気付くことで大事だなと思うことがあった。それは、「要素を組み合わせる(=結局これは別の" 新しいもの" を用意する度合いが強い)だけではなく、今あるもの同士を、なるべくそのまま一緒に合わせようとすることで生まれる良いものもあって、それだって新しいものなんだ。」ということだ。なるべく素材同士を活かそうとするカレーや料理にも似た話かもしれない。ともあれ、忘れてはいけない気付きがもうひとつあった。それは、前回の記事で紹介した橘川氏の次の言葉だ。当然ながら、またしても先に言われていた。というか、この言葉もまたこの記事の着想を担って下さっていたわけだ。

 

「今の時点でいいことはたくさんあるが、このまま行っても良くならない。今ある良質なものを集めて一緒にやろうよ!というのが未来フェスなんだ。」

 

ここでこの言葉を挙げると、「あれ、これは(上記1.同様)良い(と思われる)要素を組み合わせるマッシュアップであって、なるべくそのまま一緒に合わせようというのとは違うんじゃないの?」と突っ込まれるかもしれない。でも、ここでこそ自分たちの意思を表さずにどうするの?って思う。つまり、「いつまで他人事みたいに眺めているの?僕たちは、じゃがいもでもニンジンでもないんじゃないの?」と思うことになれば、誰かに要素を組み合わせてもらうものであるわけがない。

追記

既にこんな言葉も登場していた。

お邪魔レポートの体裁を借りた思考の為のノート「未来フェス in 高島平団地2014」

0)口上

今後の流れとして、品詞化済みのもののみならず、言葉や感情の中にはピクトグラムや図形といった何らかの描画に変化して、図形先行での文字認識の発生や文字・図形の併用に置き換えられていくものが増加するとは思うが、いずれにせよ言葉として認識し続けることに変わりはないだろう。また、本日東京に十数年住まいながら初めて訪れた高島平団地は、あくまで私が住んでいたかもしれない可能性としての私の住居でもあるから、いくら標題の舞台とはいえ、なるべく撮影を行いたくはない。
この2点から、いつの間にか一般化した感のある「まず画像があって、次にそれを説明するキャプションのようなテキストが続いて・・・」という構成とはならなかったこと、最低限の画像に留まったことを先ず記しておく。画像好きの方は、ごめんなさい。

※もっともらしいことを挙げ連ねたが、そもそもそれ以前に、これは標題ではっきり示した通り、自分の「思考の為」に記し始めたものだ。ただ、そのノートは広く一般化出来るのだから面白い。ではどうぞ、一緒に進みましょう。

1)到着

改めて、一番最初に書くべきことを挙げると、私は本日2月16日(日)、昨年初めて京都で開催となった「未来フェス」、その東京での初開催にお邪魔すべく、中央線から高島平へと向かった。未来フェスとは、このブログでの最重要命題の一人、橘川氏が昨夏発案し秋に実行した、外資系企業も真っ青のスピードと、日本企業もうっとりの日本的人情に溢れた、それでいて最先端を露骨に含んだ、おそろしく贅沢な日常的参加イベントのことだ。もっとも、これは私が今形容してみた言葉で、詳しくは、次の公式サイトをぜひご確認頂きたい。ともかく、知らない方には今は「すごいんだ!」ということが伝わっていて欲しい。

◆未来フェス公式サイト
未来フェス事務局|まだ現実化していない未来のイベントを、みんなの小さな力で現実化するシクミ

かくして私も期待と緊張の中、淡々と電車に揺られ高島平駅に初めて降り立った。いきなり面白かったのは降りた瞬間、懐かしい感じがして、即座に「あ、これは大阪の千里中央あたりの雰囲気に似ているからだ。」とひとり合点していたことだ。昭和40年代にも50年代、60年代にも平成のいずれの年にも錯覚可能なような、無国籍ならぬ無時代、いや全時代感といった感覚を覚えた。どこか、SFのようでもある。

そうだ、
SFは別にロボットも最先端の機器も建物も必要じゃないってずっと考えていたことを思い出した。そして、SFである以上、会場に入る前のこの光景(状況)の中に既に未来が漂っているのだと思った。そうか、未来は懐かしいものでもあるんだな。

結果的に、会場である高島平団地内で予想以上に迷って会場に駆け込むことになるのだが、続いて朝食を兼ねファーストフードのお店に寄ると、通りに目立つ老人よりもさらに多くの老人が、それぞれ非常にアクティブに会話を続けているのが目に入ってきた。まるで子供のような無邪気さも覚える光景に、高齢化という言葉を思い浮かべるのはとても安直だと、なんだか楽しい気分でチキンをコーヒーで流し込んだ。 そして、会場入り。画像ではうまく伝わらない、においを伴った広大さである。さらに折しも、現在進行形で今も深刻な被害をもたらしている降雪の影響で路面が悪いことも重なり、私が目的の部屋(教室)にたどり着いたのは前述の通り、既に「ライブ」が始まった後のことだった。

2)橘川の講演「森を見る力」 という名のライブ

ライブと呼んだが、いわゆる楽器と歌による演奏が登場するものではない。あくまで橘川氏がノンストップで一人肉声で話し語りしゃべり続けるものだ。知っている人なら全員納得の形容だろう。別に怒鳴ったり激昂したりするものではないが、本当に、100分近くの時間を一人で板書も交えながら、全員の顔を見ながら、続けられるのだ。以前、耳にしたことがあるが、大まかなテーマは決めているが、当日の教室の反応によって、語られる内容は変化するらしい。これって今全世界を回っているストーンズと同じかそれ以上じゃないか。

今回も橘川氏は、新たな形容を試みるなら、高度経済成長の黎明期のような力強いすがすがしさで、私たちに話し続けてくれた。その中には、氏が今も主催されている私塾「リアルテキスト塾」
でかつて教わった内容も含まれていたが、私が忘れ去ったわけではないのにますます新鮮な言葉として飛び込んできた!その内容をそのまま列記することにも相当な意味が生じるが、ここでは概要に留める。

3)今回のライブ

1.生命進化

  • 何でそんなことが起きたかは分からないが、かつて、はじめはプランクトンのような微生物でしかなかったものの中から「海から陸に上がる」ものが現れた。こういう「おっちょこちょい」は好きだが、人とはこうして「はみ出していくもの」なのだ。ここで重要なのは、陸に上がったものは、かつて自らを取り巻いていた「海」をみずからの体内に、血液や体液というかたちで取り込んだということだ。外側の海を内側に持ってくることによって生きることが出来たわけだ。そして、陸に上がったものはやがて人になり、「共同体」という「法律」と「金」が不可欠なものを作った。つまり、人はもはや動物としては生きられるかもしれないが、人間としては「社会」の中でしか生きられないものとなった。 そして、今起きていることはその次の「情報」という段階だ。共同体は地域に縛られているが、情報はそれと異なる。それは共同体から結果的にはみ出してしまう状態だが、自動的に誰もが情報型の人類へと移行出来るわけではない。新しい環境に行く時には、体内に(古い環境を)取り込む必要がある。だから、この(共同体型の人類から情報型の人類への移行という)過渡期には、かつて海を体内に取り込んだことが参考になる。つまり、この過程では、法律が無くても、例えば「人を殺してはいけない」といった倫理を個人が自らの中に持たなければならないということを意味する。
  • 問題は「金」だ。金とは空気だ。本来スムーズに回っていれば問題ないものだ。人はご飯を一日3回食べるのであって、いくらお金があってもそれを6回には出来ない(それなのに、どこかにお金が偏ることで問題が生じる)。20世紀は環境の時代であったがこれからは環境よりもお金が問題となってくるだろう。つまり、お金とは信頼であり、これまでの共同体型の中では国家という共同体に対する信頼があったが、情報型の中ではそれが今後無くなる。そして、違う(対象に対して)信頼を持ったお金が必要となる。どういう根拠で生きていくか?だ。


2.共同体

  • 中一で入ったクラブはその人の本質に根差している。「何をやっていいか?」が分からない頃に選んでいるからだ。僕(橘川氏)は写真だった。その後、高校で登山を選んだ。

  • 登山の流れを見てみよう。

    A.信仰(対象としての山)からアルピニズムの登場
    1. 産業革命により資本家が誕生。余暇の発生「趣味で山に登りたい!」
    2. (最初の)登頂を目指すピークハンターの動き「誰も登ったことの無い山に登ろう!」「名前が残る。」
    3. (未征服の対象が無くなることでの)シラケ「世界の山は全て登られてしまった。」
    B.ウルトラアルピニズムの登場
    1. より難しい条件に挑戦「冬期○○登山に成功!」
    2. (この多条件においても対象が無くなることでの)シラケ
    C.(橘川氏の造語として)ポップ・アルピニズムの登場
    1. (かつての)山は神聖なものであるという考えから、情報的に全て分かっている状態を利用することへの移行「楽しんでしまえ!」cf.沢登り、シャワー・クライミング「水着で水の中(最短距離)を登る」
    2. 一部分だけを取り出してくる、(全体ではなく)ユニットを楽しむ「世界的には評価されないけど、楽しさは変わらない。」「どう楽しんだかが勝ち!」

  • この流れは「資本主義」の流れと全く一緒。頂上を最短距離で目指すものは、プロセスを追求する流れとなり、楽しさを追求する流れとなった。 cf.バンダイ、サンリオの時計(80年代)「プロセスの追求の時計メーカーには、楽しむという時計は作れない。」
  • さてここからが大変。ハッピーかと思いきやハッピーではなかった。システムという(ビッグデータと呼ばれるものも含め)乗り越えるべき課題が登場してきた。
  • 最後の子供間の口コミ商品としてビックリマンチョコ1984年頃)がある。これ以降、POSデータ(というシステム)が登場した。口コミ商品というのは息が長い。一方、システムは新しいヒット商品を生むことが出来るが、廃れるのも早い。常に新しいものを出し続けねばならなくなった。
  • システムによって(口コミのように)間に入る人が要らなくなる。それでクリエイティブなものが生まれるのか?
  • 中抜けになればなる程、個人ではなく組織が判断するようになっている。これが今の問題。

3.インターネット

  • 我々(橘川氏のような団塊)の世代にとってはインターネットのようなものを作ることが目的だった。
  • 生きているだけで、明治の頃のような中間人を必要とせず情報が入ってくる時代、これを実現したのがインターネットだ。
  • インターネットで一番重要な特徴は「発信者負担」であること。これが、今後世界を変える要素になってくる。 cf.ボランティアの隆盛(90年代)「ボランティアというのは無償ではなく、有償での労働行為。」
  • お金を稼ぐ労働と、喜びとしての労働がある。このバランスを取ってきたのが、本来の我々の姿。これを忘れていなかったのだろう。(お金を払って納得出来る労働を手に入れるという)この流れは、全くインターネットの「表現する喜び」を求める流れと重なっている。
  • ここで(インターネット上で発信する者として)村上龍と女子高生がいるとして、表現では圧倒的に村上龍が長けているだろうが、女子高生はお金を払って自分が言いたいことを言っている。質から言ったら、プロよりもこの女子高生の方が高いと思う。
  • インターネットは近代ビジネスを超える。 cf.橘川幸夫氏の著作「インターネットは儲からない」(2001年)
  • インターネット以前は、世界はばらばらという認識を前提としていた。ばらばらなもの同士を繋げること(間に入ること)がビジネスだった。つまり、近代ビジネスには「ギャンブル」と「ピンハネ(マージン。ギャンブルが持続性を伴ってきたもの)」しかない。インターネットは、直接ABを繋げる。インターネットはやればやる程(進めば進む程)近代ビジネスをスポイルする。現実には、急には変化しないだろうが、質的には変わらざるを得ない。 cf.B社の特定コミュニティ向け旅行代理店
  • 代理といっても、クライアント企業、組織側の代理でしかない(ものが多い)。中抜きの代わりに、消費者の側の代理となる「中入れ」を提案したことがある。考え方として、個人の側の代理店はまだまだ(可能性が)あるだろう。どちらにつくか?だ。


結局、カッコ書きによる私の言葉での補足を加え、概要に留まらずほぼ全て列記してしまった。列記せざるを得なかったからだ。だがここから先は、現在進行形で具体的に進行している橘川氏のプロジェクト、活動の説明を含むライブとなった為、記さない。残念ではあるが、それはいずれもどんな内容に今後変化しようが、冒頭に記したように大きなテーマは変わらないという点で、残念どころか、具体的に未来に進む日常の素晴らしい動きばかりだ。それを象徴するのが、この「未来フェス」なのだ。ここで、未来フェスについて、また別の言葉でその思いが語られたので紹介したい。

「今の時点でいいことはたくさんあるが、このまま行っても良くならない。今ある良質なものを集めて一緒にやろうよ!というのが未来フェスなんだ。」

 

4)ライブ以外の会場の様子

 矛盾した言い方かもしれないが、元気の素を注入、もしくは自己生成出来た私は労働後の肉体労働者のようにすっかりフラフラ、団地内にあるレストランでカレーを頂いて辺りの空気に溶け込もうとしてしていた。ここでも、元気な老人たちの姿があり、それに加えて、寅さんのさくらを思わせる女性が、注文や会計時等ことあるごとに、老人たちをはじめお客さん一人一人に、私的な会話を投げかけていた(それは、橘川氏同様に最重要命題である小沢健二氏の言葉で言い表すならばまさに、お互いに「返事じゃない言葉を話す」光景そのものだった)。注文したカレーが登場するのは思ったよりも時間がかかったが、そんなことはどうでもよく、ついでにコーヒーを追加注文しているくらい、またしてもとても素敵な空間にいた。

ということで冒頭記した通り、実は数々の「最先端」な動きが露骨に、子供部屋のように団地の空室で展開されているというのに、駆け足で触れるに留まった。例えば「未来フェス」誕生の触媒であり、初回にも関わらず有意義な課題の獲得と共に成功に導いた立役者、「ピポトレ!」の宮崎要輔氏をはじめ、船酔いに近い感覚を覚える程超リアルなVR体験「オキュラスリフト」、何よりプロなのに、これまで一貫して読者との関係性を大切に紡いでこられている作家、田口ランディ氏の「文章教室」、もはや発明といえる「石花」で海外でも話題となっている石花ちとく氏といった面々が贅沢にも一つの「日常」となっていた。少しでも関心を覚えた方は、それぞれインターネットでの情報に触れることをお勧めしたい。かく言う私自身、今回初めて触れたり、興味が高まったものやことや人も多く、これから始める立場だ。

5)思考の為のノートとはいえ、これまで記したことで得られたまとめ

以下、列記。

・団地とは可能性として分かりやすい形を留めている場所だ。見方次第で子供部屋のように思うことも出来る。
・団地の建物はこれ以上巨大にならないが、今ある中に巨大なものを取り込むことが出来る(生み、育て、追想することが出来る)。
・子供とは未来のことを直接意識していてもいなくても、未来へ進んでいる存在だ。老人は未来を意識するようになった子供だ。
・橘川氏は生き続ける能力においても天才だ。さいとうたかを「サバイバル」のような悲惨な日常(非日常)があるとして、それすら一日常として更に上から眺めている視点の持ち主だ。

(本稿も未完、というか続く)

f:id:doggymanK:20140216235020j:plain

f:id:doggymanK:20140216235248j:plain

f:id:doggymanK:20140216235758j:plain

f:id:doggymanK:20140216235328j:plain

f:id:doggymanK:20140216235407j:plain

川田館長のおかげで寅さんと再会! 「原宿シネマ × 男はつらいよ 第3弾」

意識して感嘆符の使用を抑えがちな私がこのようなタイトルにしたのは、先程会場を後にしたばかりで、まだ獲得した熱というべきものが放熱される量よりも多く体内に保たれているからということもあるだろうが、何より再会と言うくらいで、発見に溢れていたことが素晴らしく嬉しいからだ。再会と発見がどう結び付くか、それは「言葉とは自分のものではない」といった橘川氏の言葉を元にして説明出来るが、ここでは構わず筆を進めてみたい。

その前に、思えば私にとって、こうして当日という極めてリアルタイムな状況でキーボードの筆を進めるのは、相当久しぶりのことだ。このブログ全体の目的を自分自身に問う時、両氏に関する私の個人的な体験を一般化する試みとも言い換えられるから、その記述は時系列に沿ったもの、つまり先日2月
6日に訪れた橘川氏の出版パーティーという体験を元に思考を進め始めるかと思いきや、そちらはその場で頂いた宿題の重さで時系列を失ったのか、つまり宿題としての普遍性を獲得したのか、ともかく「うっかり」すると放熱しかねないという危機を感じた、本日の体験からの思考を先に展開しまだまだ続く冬を過ごそうと思った。

十分、前口上が長くなったようだ。「人生の一本に会いに行く!」をキャッチコピーに掲げる原宿シネマにて開催されている人気企画「原宿シネマ
×男はつらいよ(原寅)」で、今年初の開催となった本日、毎回変わる館長を務めていたのがタイトルの通り、今や説明不要というか不可能、いや(自分で考えることに意味があるという意味で)不毛な、AR三兄弟の川田十夢氏(以下、館長)だった。そして本編には、シリーズ30作目という『男はつらいよ 花も嵐も寅次郎』(1982年)が上映された。

原宿シネマでの詳細ページ「原宿シネマ × 男はつらいよ 第3弾|川田 十夢 - 『男はつらいよ 花も嵐も寅次郎』(第30作)」

結論から言うと、それは
①館長挨拶②本編上映③アフタートーク、そして、④この場所⑤参加者がいずれも切り離せないワンセットとなったオープンな作品として、体内に入れて持ち帰ることが出来る、つい館長の生業の一つに近しい言葉、オープンソース?といった軽口も真顔で頭に浮かんでくるような、素晴らしい作品体験であり体験作品だった。


館長挨拶・・・本編の初上映年である1982年を元に、当時がどんな時代だったか、歌(謡曲)のヒットが取り上げられ、あみん「待つわ」が、続いて本編出演者の一人、沢田研二氏がその年何をやっていたか?ということで沢田氏が同年発表した「おまえにチェックイン」が掛けられる。笑いに包まれながらも会場は館長の「歌はやっぱりすごい時代を含んでいる」や「今(SNS等で)どこどこにチェックインってやっているのに、この時既に” おまえにチェックイン” って、すごいですね。」という指摘に納得。本日の原寅という作品に入りこむこととなった。数ある1982年からのこの(航路)選択は艦長とも言えるが本編に続けよう。

本編上映・・・観た/観ないでいえば、幼少の頃からずっと映画版サザエさんのごとくお茶の間に流れていたシリーズだからかつて観たのかもしれないが、覚えていない。極めて初見だが、そんなことはお分かりの通り、本日が本編上映のみで成り立っていないことを考えれば、あまり意味をなさない。ただ、映画作品として鑑賞者の勝手な思いを挙げれば、強くてさみしくて弱くて暖かい気持ちが風のように吹いている作品で、未完成な部分があるとしたら、それは館長の生業の言葉で言うところの「余白」であり、館長、AR三兄弟との類似を感じずにはいられなかったということだ。こういうときは、列記で落ち着いてみようか。

  • 寅さんは、簡単に異なる世界が交わっている。でも「いつも交わろうとしている」という意図的なものではない。またしても橘川氏の言葉となるが、それは「出会ってしまった(んだから、そこから始めなきゃしょうがないでしょう)」と同質のものだと思った。③で館長が言っていた「寅さんは何も義務でやっていない」に通じていると思った。つまり、これはおそらく橘川氏、及び館長両氏を通じて獲得出来る(=一般化出来る)知見として最重要な考えの一つ「(今後の人類の変化の中では、情報化でいきなりお互いが繋がるのではなく)孤独のまま、留まる(という状態が必要)」を、寅さんが為し得ているからではないか。これも③で館長が言っていたことだが「寅さんは、なんでいつもいつもあんなに明るいか?と自問したら、寅さんは誰よりも孤独だから、孤独な人に明るかったんだ(と分かった)。」がそのままこの言葉に重なった。
  • 異なる世界は、寅さんが直接訪れていない場所にも現出している。三郎(沢田研二氏)と結ばれることになる蛍子(田中裕子氏)の家庭や勤務先のデパートには、過去をまだ内包している蛍子に対峙するように現代が渦巻いている。異なる世界を更に細分化するなら、その形容としては、人工的/非人工的、よりも、共有可/共有不可の違いが適切ではないか。つまり、とうにこの1982年に、SNSで目立ってきたかのように語られがちな問題が描かれているのではないか。
  • 映画の構造として観察した時、私なぞの指摘は今更不要だが、形式の発明が偉大。繰り返されるその形式は、ブルースの3コードのような汎用性から、ジャズのインプロビゼーションのような自由と責任までを関わるもの(役者、製作者、観客)に与えているのではないか。
  • こういう偶然もあるのかと思ったが、この1982年は、舞台の一つとなった大分を小学校の修学旅行という形式で私がたった一度だけ訪れた年だった。その旅行については殆ど覚えていないにも関わらず、全て眺めたことがあるような既視感があった。そういう意味で、自分が生まれてからの時間を扱った映画は、どこかしらドキュメンタリー性があるはずだと思ってわくわくした。ドキュメンタリーとは、現代性を含んだものだと思う。現実の中で問題のようなふりをしたものに出会ったなと思った時には、ドキュメンタリーで問題に再会すればいい。自分が生まれてからの時間を扱った映画は、観よう。


アフタートーク・・・既に前述した鋭く重い言葉を含みながら、滑舌の良い館長のトークが続いた。それもそのはず、そこには終始本当に寅さんが好きで好きで好きでしょうがなくて、気が付けば超高密度に寅さんに精通していた館長の姿があった。(松竹の撮影地として、また、寅さん関連の充実したアーカイブを誇る市立図書館といった)調布という環境下にいたにせよ、1992年、館長がまだ高校生の頃、たまたま出会った寅さんの作品にのめり込み、「高校2年で(当時の)全45作を繰り返し観終えていたので、つまり、もう全部入っているので学校に行く意味がなかった」というのは、なんという最短距離、両氏の言葉でいう「本質」なことかと、気持ちが揺さぶられ、その一貫性に感動してしまう。これが「必然」なんだろう。館長の生業の言葉でいう「あらかじめ書かれた」ものなんだろう。だから、寅さん(渥美清氏)の9684日の事も、毎年新調していた寅さんの雪駄の鼻緒が切れることで伝えられたのかもしれない。

本編上映でも登場した、そして、他の寅さんの作品にも頻出しているに違いない「さみしさや悲しさの中でふっと生じるおかしみ、笑い」のように、若き日の館長は式に並びながらも、自分を寅さんだと思って、背中に手を合わせる人に「おかしみ」を感じ、その場を後にしたそうだ。肉体がその場に留まることが、留まることではないんだろう。そもそも、寅さんが「どこにいるのかさっぱり分からない、けど時々戻ってくる」そんな動き続ける留まり方をしていることに気付く。だから、当然「しんみりするつもりでここに来たわけじゃない」という館長の言葉で、本邦初公開となる作品も交え「寅さん越しに” 未来の映画” 」が披露されていった!私が「ワンセット」と言った意味が伝わるはずだ。

詳しい中身についての解説は野暮というものだが、その” 未来の映画” への思いはぜひ紹介したい。それは次のようなものだ。「映画を元にしたゲームはつまらないものが多いが、その映画を知っている人はより好きになる、知らなかった人も(触れることで)楽しくなる、何かがあるんじゃないか?と考えてきた。」義務で動いていない、出会ったから動く、そして、結果的に周りを明るくする寅さんに実に似ている。アフタートークといいながら、何度もはじまりに連れて行ってもらえた時間だった。そんなはじまりに繋がる言葉を他にも挙げると「(映画との接点は色々あるが)映画にはお話を考える過程がある。この断片をもっとスマートに出来るんじゃないか。シナリオ・ハンティングはとてもわくわくする(行為だ)。このハンティングから映画が出来ると思う。」キーボードの筆を進めていてもわくわくしてくる言葉だ。同時に、このシナリオ・ハンティングとは、まさに1982年のこの作品の中で、寅さんがやっていたことでもあるのだろうと思う。

「偶然だけど偶然じゃない。」これは本編上映の中に登場する、ひときわ明るい、太陽のようなシーンで寅さんが口にする言葉だ。ひとまずこれで全体を表すことが出来た気もするので、この辺で締めくくりたい。

追記

この場所・・・原宿シネマという場所も、素晴らしかった。原宿だろうが裏原宿だろうが、能動を伴った衝動を受け入れてくれる場所であり、自由と責任を当たり前に空気として湛えている場所だと思った。厚すぎるコートや荷物にも気付かされた。

参加者・・・司会の方を含め映画関係者の方も当然多くいらっしゃったようだが、観客席の反応から見るに、映画や寅さんやAR三兄弟のファンに留まらない方が多く感じられたのが良かった。誰もスマホで撮影したり、いじったりしていなかった。映画館でのスマホが絶対にダメではないのは、そもそもAR三兄弟がもう5年程前に飄々と提示してくれた作品体験だったが、今回は触らないで留まるのが正解だった。

⑥館外…上記には挙げていないが、やはり書かずにはいられない。館外へ出ると、まだまだ雪が残る通りを帰宅すべく駅へと向かった。途中、スマホのバッテリーチャージと今回の作品についてのメモを残すためにSoftBankショップとマクドナルドに寄った。両店共、他の区や地域のそれらと比べ、最新型の印象を投げ掛ける、サービス、スペース共に大規模なタイプだった。

その中で、誰もが、スマホを媒介、代理人のようにして、目を使ったり口を使ったり、耳を使ったりしていた。そんなのは、この後で乗ったJRの車両内でも同じだったが、大きなスペースの中で普段眺めるより沢山の人がスマホを触ってたからなのか、もっと色んな人を見たかったからなのか、ともかくその一様さを意識した。そして、前述の「留まる」を思い出しながら、やっぱり今はまだまだ孤独になりきれていない孤独の戯れなのかと思った(復唱した)。都会のあるいは現代の、その他私達が言う多くの何某の孤独は、まだその先の孤独になれる。少し前ならこれを救いとか進化とかに捉えそうにもなっただろうが、何せ館外へ出たばかり、そこには変化という余白があるのだと思った。

館外へ出たばかり、といえば、橘川氏の青年時代にはさぞ街に溢れていたであろう「(なりきり)高倉健」の如く、カウンター越しの笑顔に本編の寅さんを気取って「おう、多国籍企業、またしても偶然、美味しそうなハンバーガーを出すとはやるじゃねぇか!(笑)」と声を掛ければ良かったかな、とわずかに浮かんだと思ったら直ちにやらなくて良かったと安堵とさみしさを覚えている自分に気が付いて、留まるということがいかに恥をかかないようにすることと混同されがちか、留まることの困難さが隠れがちなことかと思った。

もっとも再び③に戻れば、45作品を繰り返し観終えた館長は口調や言動まで寅さんのようになっていたらしい。ではと考えるも、今回のレジかどうかは別にして、館長が寅さんとして態度を示す時には、それは表面的には寅さんと異なる口調や言動をもって現れるはずだと思った。だって館長は留まっている人だからだ。

そういえば、一方のスマホの中の光景だが、留まっている人も、留まっていない人も、今やSNSの代表Facebookでは同じ「オンライン」となり、ましてやTwitterではそのステータスの表示すらなく、誰がどちらか見た目には区別がつかない。チャットをオフにしていようが同じだ。これは要注意だ。本編の言葉を使うなら「心で」誰が留まっている人かを感じるしかないということか。自分も他人として。

 

f:id:doggymanK:20140215233005j:plain

f:id:doggymanK:20140215233031j:plain

橘川幸夫氏と川田十夢氏という宇宙空間への衛星発射実験その3:Amazonと書店と酸素と窒素と

さて三回目だが、橘川氏の新著の入手と重なった。深く考えたわけではなく、受け取り時間が早朝でも深夜でも自在ということで、書店ではなくコンビニ受け取りを選んだのだが、Amazonから森を受け取るというのも面白ければ、それが、まちのほっとステーションというのもBowieのStastion To Stationを思い起こさせ橘川氏っぽいなと、ニヤッとしてしまった。都合のいい考えだろうがAmazonの安定した過剰包装も、今回は例外だ。むしろ、森を内包したモノリスのような佇まいだ。もっともエコもエゴも一緒だというものだろう。
 

f:id:doggymanK:20140122225848j:plain

 
ページを開けた中の世界はもちろん、森の入り口のひとつ、装丁についてもまだ語るまい。まだ見ようとしているだけだからだ。代わりに、改めて街の書店に立ち寄る。橘川氏、そして川田氏の著作が置いてある書店の空気とはどんなものなのか?それを実際に吸ってみたくなったのだ。程なく駅前好立地の、中堅規模のチェーン書店に入っていた。店員の方に尋ねる前に、両名の著作が並んでいることを目を少し閉じて想像してみた。途端に店内の酸素の希薄さに気付く。倒れはしないものの、アクティブな入荷や追加がなされている光景が立ち現れて来なかった。それなら同質の本はと妥協したところで、同じ系統樹だと思われる樹木が所々に立っているのは分かった。私はさっそく老人のようにもたれ掛かった。
 

f:id:doggymanK:20140122230414j:plain

 
「いつまで鑑賞しているのか?どんな本を読んだか、どんな音楽を聴いたか、そんなことは君の価値とは全く無関係だ。」(橘川氏)
「何、ソシャってんの?」(川田氏)
 
頭の中で両氏が幸い、また檄を飛ばしてくれた。これまた都合がいいものだ。さらに都合よく「思うことは自由だ。」(橘川氏)を思い出し、勢いを得てその場を立ち去ることが出来た。書店の中に森を見ようとするのなら、書店の範囲を視覚的な範囲に限定することはない。こんな姿勢としての拡張は、川田氏の拡張の手前も手前だ。
 
さて、本といえば「本を読むな。書け。」(橘川氏)という、リフレインとなっている檄が飛んでくる。それなのに、読もうとしている。え、おかしいんじゃないかって?ここで「偉大な人は矛盾も大きい。」(橘川氏)を使って逃げることも出来るわけだがその前に、書くように読むことが出来る本は、なんて少ないのだろうと思う。酸素も生むのに絶対必要なのに。
 
それは、時代を眺める受信という行為、それに対して行動する発信という行為、つまり、時間と空間を要するものだからだろう。
 
だから「ひとりがちはない。」(橘川氏)ように、酸素だけでも二酸化炭素だけでも窒素だけでも単独では成り立たない。「受信し同時に発信せよ」(橘川氏)。
 
確かに大気中を一番多く占めているだけあって、手を伸ばせば窒素が掌で掴める。いかに掴まないかに長けることが出来なくて掴まされても吐き出せばいい。森はそんな気付きも与えてくれる。(続く)

橘川幸夫氏と川田十夢氏という宇宙空間への衛星発射実験その2:森を見ている森、川を見ている川

さて第二回目である。つまり、同じことを違う言葉で伝えようとする試みである。この年末年始はいつにも増して橘川幸夫氏川田十夢氏の著作をはじめとした作品に接している時間が長かった。そして、直接空間を共にしていたわけではないのに、両者の空間の中に居るという実感、その逆で近付けてさえいない実感の両方を覚えていた。それが、こんなブログとタイトルを設けることに繋がったきっかけだと思っている。
 
そんなこのブログが彼らの宇宙空間に向けた実験であることに変わりはないとして、もちろんそれは地球内はおろか脳内のみに留まっているものではない。膨大さや広大さのみが特徴ということでもない。橘川氏らしい名詞で説明するなら、それは「日常」に存在しているものだ。なるほど、先の二律背反しそうな実感の理由が分かるというものだ。それならと今回、宇宙を別の言葉に置き換えようと考えるが、それは折しも昨日21日、橘川氏の約10年振りの新著として発刊された「森を見る力」にある「森」、あるいは偶然にも両者に共通の「川」が適当だと気が付いた。
 
宇宙=森=川。それはいったいどんな森だ?川だ?森の場合、例えば大江健三郎氏が使う森が外界と隔絶された逃避的なコミュニティとするなら、まるでその逆であることが分かる。何故なら、知れば知るほど外をよく眺めることができ外に繋がることが出来る場所となっているからだ(それこそ、「メディア」というものなのだろう)。しかしながら(宇宙という言葉のイメージなら尚更帯びがちな)「だだっぴろさ」や「障害のなさ」は希薄で、むしろ感情を目いっぱい動かす、そんな類の労働を要し、すいすい歩けることはまれな場所だ。このブログでさえ何から話せばいいのか?方向性があり過ぎて困るくらいなのだ。川なのに、一つの方向のみに流れるのではない。冒頭挙げた通り、居るのに近付けず、苦しいのに惹きつけられるとは一体どういうことだろう?
 
それは彼らが「森を見ている森」ならびに「川を見ている川」だからではないか。森は川を見るし川は森を見るのは自然現象として当たり前だから、それはいちいち書くまでもない。あくまで、その意志が通っている様について考えたい。
 
つまり彼らは、まだ分からない森を見て、彼ら自身が惹きつけられている森なのだ。それは何と考え続け、あらゆる方向に流れ、その流れを眺めている川なのだ。時折、彼らが眺めている森や川を露骨に見せてくれることがある。苦しいが惹きつけられる。
 
そんな両者にももちろん目に見える活動がある。最近はどうか。新著というビッグバンもとい、極めて重要な緑化としての森を出現させたばかりの橘川氏は、そのほんの少し前を覗いただけでも、昨年10月には初開催となる「未来フェス」を京都で開催、さらに来月にはその第2回目を東京の高島平団地で開催予定と、次々と外観の異なる森、川を出現させている。また、その少し前の6日にはこの新著の出版パーティーが開催されるが、通常のそれとは異なり、クラウドファウンディングで実現され、当日は多くの時間をゲストのプレゼンの場が占めるという極めてユニークな森、川となっている。
 
川田氏は、昨年「情熱大陸」に登場した、などと言うこと自体が、自身の森や川の中で小石と化す位、橘川幸夫氏同様、森を見ている森、川を見ている川だ。大規模な実験に限らず、日常的に同時進行を続ける多数の連載という作品で、彼に接する表面積を多く感じている一方で、その体積の計り知れなさに圧倒され、寂しさを覚えることもある。
 
寂しさ。ここでピンときた方もいるだろう。再び橘川氏の言葉だが、「寂しくても、留まらないといけない」時代がある。そしてそれは今だと思う。まだ終わりたくないから。次に繋がりたいから。前述した「外をよく眺めることができ外に繋がることが出来る場所」であっても、川田氏の言葉を挙げるなら「次元を超えて」きても、そもそも「拡張」しても、彼らは寂しさに留まっているはずだ。つまり、留まること=見ること=書くことが、外部への原動力になっているはずだ。いったい、どこまで動くのだろう。(続く)