Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

転がる点と線。日常の延長としてストーンズを体験。ザ・ローリング・ストーンズ 14 オン・ファイアー ジャパン ・ツアー

2014年3月6日、久しぶりに東京ドームという閉じている場所に向かう中、眼前の長蛇の行列に対して、心を完全に開くことの出来ない個(という閉じた点)が一時的に一定の範囲内に集中しているという意味で点のままの状態と、たとえこの範囲外にいたとしても個は社会にある以上、何らかの連なりであることから抜け出せないという意味で線の状態の両方を考えていた。それらは「そもそも、閉じていない状態ってあるのか?いや、閉じている状態だってあるのか?いや、閉じている点と閉じていない点、ならびに、閉じている線と閉じていない線の両方があるんじゃないのか?」という疑問となって浮かんできた。そして、この点と線を包み込んでいるのが地球や日常なのだとしたら、前4態(閉じている点、閉じていない点、閉じている線、閉じていない線)を全て兼務していて、いずれか一方のみであることは出来ないんだなと思った。そして、それならば、人もまたこの4態の兼務なら出来るということではないかと少し落ち着きもした。

「人は個人の歴史と人類史の2つの線を生きている。」や「人は動物としての生と社会的な生の2つを生きている。」とは橘川幸夫氏の言葉だ。つまり、個人の歴史も人類史も、動物としての生も社会的な生も線のような点なのか線のような点なのかは分からないが、4態を伴ったものなんだろう。日常を完全に傷つけてはしまわないけれど、確実に切り取り線を残していくという点で、天才とはまさに点線のようだ。ストーンズをきっかけに、再びここでも橘川氏が登場していた。

東京ドームの中の話に移ろう。この日の体験としてのストーンズという存在が日常の延長に思えたのも、この4態について、橘川氏の言葉も元にして気付き始めていたからだろう。意外な程、冷静に興奮している自分に気付いていた。彼らを直接眼前に捉えるのも3回目とはいえ、前回から既に11年が経過している。この間YouTubeの動画で熱狂してきたのだから、もっと圧倒的に興奮して良さそうなものなのに、安心感や感謝のような気持ちが私の体を操作していた。

ライブが始まった。1曲目からJumpin' Jack Flashだ。2曲目以降と比べると少し立ち上がりがもたついたような、どこかサウンドチェックのようでもあった。このこともあって、前述の日常感は強まり、まるで来月も東京や他県のどこかで、ライブを行っているような既視感さえ覚えていた。

3曲目のIt’s Only Rock ‘N’ Roll (But I Like It)では、中央の巨大ビジョンに(間違いなく最新の技術によって映し出された)60年代から始まる、彼らのライブの観客の様子が次々と映し出された。ハイドパーク、オルタモント、東京ドーム。数十年間という異なる時代も、彼らも、観客も、そして今回の観客、つまり私も、みな4態を兼務していることがありありと映し出されていた。誰もが主役であり脇役だ。この50年間に登場した観客が私を観ていたし、私を観てと言っていた。みんな、鏡だったのだ。鏡よ鏡、ありがとう。

そんな巨大ビジョンの両脇で、見た目にもまさに脇役であるかのように、ストーンズは黙々とプレイを続ける。宛ら田畑を耕しているような、美しい労働を眺めているような時間が流れた。そうか、彼らはこの日常の光景を包み込んできた大きな点、観客にとっての閉ざされた場所でもあるのだ。あるいは、ここでまた橘川氏の言葉を流用するなら「かつて海にいた生命が陸に上がった時、自分の中に血液や体液として海を取り込んだ」ように、彼らの中に観客を取り込んだのだと思った。先の橘川氏の言葉は「新しい環境に移行する時には、それまでのものを自らの中に持つ必要がある。」と続いている。つまり、彼らは次の環境へと移行し続けている現役なのだ。新曲の Doom and Gloomがまさに最新型という形容を付けてもおかしくない、かっこいい響きのロックとなっているのも当然だ。この曲では、巨大ビジョンにGimme Shelterの世界のような悲観的な映像が流された。思えば、Gimme Shelterを2回聴いたようなライブだった。本当に、来月も会えそうな気にますますなってくる。

映像と映像の合間に、数百メートル先のミック・ジャガーに視点を移す。表情が見えない影絵のような光景だからこそ分かることがある。あるいは実際の大きさとは無関係な巨大さがある。そこには、鷹か豹かといった、鋭利な動きが輝きを放っていた。遅れてきたわけではないが、青年だとしか言いようがない、一緒に体験した友人が終演後「ミック・ジャガーはロックンロール・サーカスの時の動きと全く一緒だった。」と興奮していたのも頷ける光景だった。

ローリング・ストーンズとは本当にうまく言ったものだ。まるで、今を予見して名付けられたようだ。悲壮感やさみしさが意外な程無かったのも当然か。彼らは水面を転がる石のように接して離れるを繰り返す、点と線の点滅という連続性そのものの存在なのだ。

とはいえ、連続性に贅沢な悩みを覚えたのも確かで、次々と曲が連続するのに対して、気持ちがうまく切り替わっていかないこともあった。今日はこの数曲だけ、あとは彼らのトーク、といった妄想が浮かんだりもした。けれど、音楽産業という作品発表の連続性を生命維持装置とする仕組みのおかげで、こうして彼らを体験出来ているのだから、と思い直した。

連続性と言えばこの日、曲の連続性でうれしかったことが一つある。それはアンコールでの2曲、You Can't Always Get What You Want と(I Can't Get No) Satisfactionだ。これもまたまた橘川氏の言葉だが「生きるとは、何故生きるのかを考えることだ。」をこの2曲が連続することで表していると思ったのだ。「いつも欲しいものが手に入るとは限らない。」は「欲しいものを手に入れなければならない。」という強い欲求だが、たとえ欲しいものを手に入れたと思ってもそれで「満足出来ない。」という、欲しいものは何か考え続けるという態度に思えるからだ。

目が点になんてなっている暇は無かった。いや、無い。点線だとしても点を転がして線にしてしまえばいい。綻んだようないびつな線だとしても、線を転がして点にしてしまえばいい。