Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

「はい。」から白紙

少し前から気付いているのに、「はい。」とだけ返事をされて心地良く思わないことがある。日本語の「はい。」もその字面だけを眺めれば英語のYESと同様に、愛だとか善だとかさえ感じさせる、ずばり「肯定」の記号として映るが、実際に相手の口から放たれる「はい。」には「いいえ。」ではないにしろ、「肯定」を感じないことが多い。「はい。」の先に本当は続きがあるはずなのに、白紙のまま渡されたような印象を覚えている。英語の" Yes, I do" や" Yes, I am" 同様に「はい、〇〇〇」と〇に該当する続きを求めていることに気付く。
 
ところで私は全ての相手に「はい。」に代わる「はい、〇〇〇」を求めているのか?となるとそういうわけでもない。コンビニのレジや、少しなじみになり掛けている飲食店の店員の方といった、まだそれ程気心が知れていない相手に「はい、〇〇〇」を求めていて、家族や友人や仲の良い同僚、はたまたなじみのクライアントには「はい。」の続きや、時には「はい。」さえも求めていないことがある。ただ、ここにも例外があって、気心がそれ程知れていない相手だらけの海外にいる時、往々にしてコンビニのレジや飲食店の対応は「はい。」ですらない冷たさを感じやすいのだが、それはそれで気にならない自分がいたりする。

要は私は何を求めているのか?" SAY YES" という歌のうさんくささを今更ここで取り上げるまでもなく、私は相手にYESと必ず言って欲しいわけではないのだと思う。ただ、相手の気持ちにとってのYESは必ず示してほしいのだと思う。私に対して謙ったり感謝したりする気持ちが無いのであれば、もっとNOを感じさせる言動の方が、態度としてはYESなのではないかと、同じ日本の中にいる相手には求めている。結局、私はYESを求めている。だがどうやら私は質問者、それもフリーアンサーばかりを求める質問者の立場でいることが多かったようだ。この点ではわがままだった。もっと否定されてもいい。

態度としてのYESなら口からではなく体全体で示すことが出来る。それが否定のNOだとしてもあれは相手にとってのYESだったのだと、後から思えることが増えて欲しい。そうすれば択一の回答に混ざってフリーアンサーも互いに求め合うようになるのかもしれない。母国語が一緒な者同士ならせめて多少今よりもぶつかり合っても良いのではないか。質問に質問で返すといった滑稽な場面はメールばかりでなくたっていいはずだ。そして、いずれは海外でも同じように「YES, I do」に続きを求めるようになれば、というのでは世間が狭すぎるだろうか?