Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。

「新海誠氏&川田十夢氏のトークショー」を聴講後湧き上がる、とあるバラバラ事件に関する考察への試み

 東京に住んで10数年、初めて中央大学に行ってきた。川田十夢氏と新海誠氏とのトークショーが開催されたからだ。もっとも、何年近くに住んでいようが中央大学に行くことがない人も多いだろう。それでも、先のような言い方をしたのは実は身近なことやものがなんと多いことかを思い知らされたからかもしれない。
 結論から言うと、爆笑に包まれながらも進行した本日のトークショーは、その前に上映された、私にとって初見であった新海氏の作品「言の葉の庭」を含め、考える為の契機や触発を与えてくれた空間という意味で「講義」そのものであった。私の後方から聞こえてきた「こんな講義だったらいいのに」という大学生の声も全くもって賛同出来るものだった。普段通り、20数年あまり変わらぬ格好で出向いたこともあり、身も心も学生気分になっていたから、よけいにその声を理解出来た。

 ここ数か月か潜在下を含めれば数年か、考えていたことの一つに「粉」「バラバラ」「混合」「接触」といったキーワードを含む祈りのような疑問がある。それは例えるなら、丸美屋ふりかけのように、異なる価値観や異なる属性や異なる集団が一つの袋に収まって、誰かがそれを外側から眺めた時に、ふりかけに対する美味しいにも通じる美しいや心地良いや素晴らしいといった感触を与えることは出来ないのだろうか?そんなことが実現出来るとしたらどうすれば良いのだろうか?というものだ。
 本日のトークショーもとい講義の模様は、有り難いことに後日、中央大学によってアーカイブとして公開されるようなので、ここでは、この祈りのような疑問を中心として、もう少し考えてみたい。

 最初に、こういうふりかけのような状態は実現出来ないのか?と挙げたことについて、実は補足がある。少し時間が遡るが、昨年の12月24日六本木ヒルズで体験した川田十夢氏率いるAR三兄弟の手による作品、拡張現実な空間「星にタッチパネル劇場」で、私は既にそれが実現出来ることを体感していた。当日のこともまた言語化すべきなまま時間が経っていたのだが、ここでは、本日のことになるべく留めたい。そのくらい、川田氏の関わる空間は、後で重さを残す軽く爽やかな風がずっと吹き付けているのだ。あー楽しかったでは終わらない。体験した自分が自分の考えを始めなければ、国債のようにどんどん自責の念が溜まっていくのに気付いていた。話は脱線したようで脱線していないのだが、さすがにもうそろそろということが本日の体験を本日書くということにも繋がっている。

 そのクリスマスイブの日について、一点象徴的な記憶(Orang Juiceの曲名を引用すれば「直感で分かった」というやつ)を紹介したい。その空間とは、相当はしょって説明すると六本木ヒルズの屋上の中に拡張現実によって星座を作り上げ、その星を展望台にいる人が操作出来るというものだった。時節並びに場所柄、恋人同士と思われる、要はカップルが相当数いた。私のように男性一人というケースは少なかっただろう。そんな中、すぐに感じたのは、肯定的な意味で、先に挙げたキーワードの「バラバラ」だった。カップルであろうがなかろうが、グループであろうがなかろうが、みんな個として自分以外を大切にしながら、程よく距離を保っている、そんな光景を見ていた。簡単に言うと、みんなで星座になっていたと思った。そして、一人一人が星なんだということを川田氏は自らの設計の中に織り込み済みなんだと思った。今、再び鮮やかに思い出しているが、本当に心地良かった。

 そして、本日。本日もまた、この「バラバラ」を感じることが出来た。認知のきっかけやパブリックイメージから本日の来場の動機というものは形成されているのだろうから、参加者には大学生が相当数を占めているというものの、それでも社会人から中学生、高校生、年齢で挙げれば、新海氏や川田氏よりも上の年齢層も含まれており、幅広い世代の老若男女が、一つの空間の中に主体的なバラバラさでもって存在していた。
 それは、冒頭に挙げたように、爆笑の連続の中で、それでも、笑わせてもらうという受け身ではなく、言葉に対して鋭い意識を傾けている人が多かったように感じる。川田氏と新海氏間同様、受講生としての我々も、両名も個同士として互いに向き合っていたのだと思う。熱気があるのに清々しかった。
 「一つの空間」といえば、まさに、参加者との質疑応答で「なぜ電車をよく描くのか?」について、新海氏による「電車が自分の生活の延長にあるから。みんな違う場所にいたのに一つの空間にいるというのが好き。都市の醍醐味ですらあると思う」の回答がまさに私の肯定的な「バラバラ」を許容してくれる言葉だと思えて、嬉しかった。

 さて、ここでもう一つまた浮かんでくる祈りに似た疑問がある。それは、この「バラバラ」を実現するのは、それを可能とする環境が当然あるわけで、その環境とは、人為的な割合が高いのではないかということだ。
 本日の講義は、両人の話し方の違いも対照的に思えて気になっていたのだが、その話し方もまた、まさにこのバラバラであった。そのバラバラな話し方が、我々のバラバラを生む心地良い環境になっていたと思った。
 川田氏は新海氏の「言の葉の庭」を「言葉数の少ない」「文学的な作品」と評していたが、その川田氏の物言いは新海氏よりも少なく、氏の生業同様、ナラティブでないというか拡張的で跳躍していて目まぐるしい楽しさを感じさせ、一方の新海氏はその評とは異なる、大変丁寧かつ内省的でナラティブな物言いだったのが面白かった。このバラバラさが互いを有機的にこの空間に存続させているのだと思った。
 少し例を挙げたい。川田氏は、意図的なのか、実に頻繁に「超~」とか「マジで」とか、どちらかというとアカデミックだったりオフィシャルな空間では聞かれない言葉を使っていた。そもそも登壇時からして新海氏のことを「パイセン」と呼んで会場を一瞬で拡張現実の中に引きこんでいたのだが、このくだけた言葉もまた拡張現実効果があったのだと気付く。折り目正しい言葉に比べて、どちらかというとまだ自由度の高い、つまりバラバラな解釈が行われていると思われる言葉達が、耳にする者に対して自分の言葉で考える場所へと現実を拡張したのだと思った。川田氏が一気にみんなの心を掴んでいるのが身体中で感じられた。凄いなと思った。

 もう一つ印象的だった対照的な場面を挙げたい。それは、私が内省的と形容したように新海氏が「自分は自信がない」と繰り返し説明するのに対し、川田氏は「僕は実は既に自信があるんですよね(笑)」と言っていたことだ(笑)。本当、説明が難しい笑いが結構大きい音で私の口からこぼれていた。そして、その自信の理由を考えてみて、川田氏はその生業同様、構造や仕組み自体から作るのを前提としているから、そういう性根だから、自信があるんだろうなと思った。そして、笑っているだけじゃなくて、すぐにずしりと重い感情が隕石のように戻ってきた。つまり、繰り返し川田氏が言っている「未来は素晴らしい」という言葉をまた思い出していた。それを忘れてはいけないのだと思った。川田氏の笑いや軽さというのは、そういう思いを地球に占める海の割合のように含んだものだと思う。

 いったんの最後として、この中央大学という名称や場所についても思いを挙げておきたい。私は、この八王子という、中央に区分される都心やその近郊も含めた都内から眺めれば遠く離れているともいえる場所に中央大学があることもまた心地良く思った。それは精神というか意識の立ち位置として、どこにあろうが中央だと言われている気がしたからだ。勝手にそう思ったからだ。この中央というのもまた、私が何度も挙げた「バラバラ」と同じ意味合いを持っていると思う。最高の空間を手に入れた。自分の時間を続けて、またどこかの空間でバラバラになりたいと思う。