Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

そのKという人

 自分の名前がKだからというわけではないが、Kに縁を勝手に得てきた。何人も好きな人がいる。文章の場合、好きになる文章を書こうと思って書くのは大いに結構だし、是非そうありたいものだが、人を好きになろうと思って好きになったりはしなかった。そんな中で、数年前からあるKという人を好きになっていることに気付いた。気付いた時にはとんでもないくらいだった。KじゃないようなKだった。おそらくその伏線や黎明期というか芽のようなものは、もっとその前からあったのかもしれない。自覚症状はとにかく後だった。そして、その後、その好意は何度か更新されてきた。その更新は確信なのかもしれない。でも、自浄作用か、いや単なる自愛だろう、自分が傷付かないようにする機能ならちゃんと働き続けていたのが分かった。
 きちんと向き合えばいいのに、そのKという人のSNSをなるべく見ないようにしてきたのも、自愛でしかない。ひと月程前から、数年間経験したことのない金縛りにあったり、妙に胸騒ぎがして、それが収まらなくて、どきどきして、すぐにそのKという人のことが、手遅れの病気のように痛みを伴って再び突出して頭の中を占めるようになった。
 そのKという人には、今会える状態にはない。物理的にも結構な距離を持っているが、それ以上に関係性に遠い隔たりがある。飛行機に乗れば本州からの北海道なんて、大阪や名古屋からの東北と比べればドアツードアで異様に近く感じられるように、物理的には実は近いといえるくらいだが、関係性の前にあっては路線などなくなってしまう。強烈な痛みのはずだが、一方でよく毎日暮らしているなとも思う。
 本当にそのKという人のことを好きなのか?と考えてみる。そこから考えないとどうしようもないと思う。自愛を破壊したいのは確かなのだ。意味ばかりを求めることを放棄したくて、あるいは、意味の前にあるもっと大きな存在に触れたかったのだと思うが、自覚してからの数年は様々なジンクスを即興で設けて実行するようなことが多かった。今惜しげもなく寄付しないともう会えない、これはまだマシな方で、陸橋に登る時は右足から、そうしないともう会えない、みたいな気持ちの悪いジンクスを次々と設けて実行して、それって嫌な類のSNSでのつぶやき、一過性の暇つぶしかそれ以下ではないか。そういうことをやってきた。
 酒にも程々に溺れてきた。決して自分を破壊しない程度に都合の良い泥酔を時々交えて。日曜日から明け方まで飲み続けるような、そんな破滅的なことは絶対にしなかった。自愛だけは徹底しているものだ。自分の寂しさから、本当に好意も何もない女性に、飲んでいる場で冗談にせよ抱きついたり、最低の廃棄物のような存在に成り下がって、焼却されないまま自分の部屋に今もいたりしている。でも、まだ自分を焼きたくはないのも確かだ。酒ももう飲みたくなくなっている。一人では。自分をぼろかすに言うのも、自愛でいつしか楽な行為にすり替わってゆく。もっとしんどいことをせねばと思う。会いたいの代わりになる言葉を自分の中から発掘したい。そのためにもっと自分を疑いたい。