Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

昔の人

 直接目の当たりにしたその日の経験を元に書き始めるのをどこか安直だとして避けることを決めても、鼻歌について書くのは良しとした、その理由を考えるといいながら、もう数日書き残してはいない。気持ち悪いので書き残すことにする。考えてはいたのだ。現時点で思うのは、頭の中にある考えや思いのようなものとその考えや思いのようなものと紐付く言語や文字の間には乖離があるとして、より頭の中にある考えや思いのようなものに近いのが、鼻歌ではないかということだ。考えるのではなく感じよう、という物言いがあるが、それはあまり好ましい表現ではまだない。借り物のままにしたい表現だ。でも、考える=頭の中にある考えや思いのようなものと既存の言語や文字を紐付ける、その前にあるものは、感じるしかないのかもしれないとは思う。
 今朝、もっとも昨夜遅くから飲み始めたこともあり起きたのは15時をゆうに過ぎていたが、目覚めたばかりのまだ布団を出ない頭の中に、ある歌同士の類似点が閃いていた。ああ、確かに似ている、と思いながら布団から立ち上がっていた。その類似点とは、Blind Faith『Presense Of The Load』とはちみつぱい『薬屋さん』のある一節のメロディーのことだ。いずれも随分昔から知っているが、前者はここ1年くらい、後者になるともう10年くらいはゆうに聴いていなかった。そして、いずれも聴く頻度は高くなかった。それが、唐突に頭の中に浮かんだだけでなく、類似の箇所を見付けたものとして現れたわけだ。実際にインスパイアというかたちで類似が第三者に証明できるものかどうかは分からないにしても、後者の作者は前者の作者のリスナーとして学習的に鑑賞している可能性も高いから不思議でもなんでもなく納得感を覚えていた。また、この手の類似は、この半年に限っても他にもあり、Beatles『Come Together』と井上陽水『旅から旅』にもまた同じような閃きと共に、あるメロディー同士に類似の関係を見出していた。
 可笑しくもあるが、いずれも最初に知ってから、やがて馴染む期間もありつつ、でも類似に気付くのはそのずっと後、ということに目が向かう。何故時間がある程度掛かったのか?と思う。そして、いずれの作品もその作者固有の作品として捉えていたのだ、また、一部分のメロディーではなく歌全体として捉えていたのだ、でもそれが時間の経過で作者と作品や曲全体という結び付きから少し離れ、素材的に現れたのではないかと理屈を見出してはみた。目に見えない例のウイルスは御免被りたいが、赤血球や白血球やその他様々な今体内にある物質と同じように、意識できないもの、記憶がごうごうと身体中を巡っているような気になる。全然馴染みはないが、輸血や献血でこういう記憶の類が別の身体に移管されることはあるのか?とも思った。もしかしたら、血液自体を必要としない移管があるのか?―ここに来て、そんな移管自体がないとは思いたくないことに気付く。昔の人の記憶を借りていると思いたいのか?―そう思いたいことにも気付く。そして、自分の記憶を昔の人の記憶に紐付けている、接ぎ木のようなイメージも浮かんでくる。そうなるとやはり、実を意識する。私もまた昔の人となることを意識する。今を残し続けないと良い昔の人になれないような気になる。