Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

浴室の喪失

 気付けば、入浴しながら、音楽を視聴することが増えている。当たり前のことではなかったのに、当たり前のようになっている。YouTubeiPhoneジップロックといった組み合わせに、何だかGAFAとかいう組み合わせと似た印象を覚えもする。いずれも身近で手頃なものだ。先日、この場所で書いた自宅が宛ら露天風呂になったのと似て、また入浴中に錯覚を得たことがあった。ついさっきのことで、また昨日に続き、実際の出来事を直接的に参照した話になりそうだが、湯冷めしないうちに、日が変わらないうちに記録することにした。
 ジップロックを挙げたが、今日は使わなかった。といっても、iPhoneを直に浴室に持ち込んだわけではない。今日は扉越しに音声が入るよう、ボリュームを上げたiPhoneを浴室の扉の外に置いて再生した。YouTubeの設定が連続再生となっていたので、やがて「何の曲だったかなこれ?」というのが流れ込んできた。明瞭に聴こえてこない分、本当は破線なのに実線に見えるピンボケの写真のようで面白かったが、浴室だからというわけではなくよくよく耳を澄ましてみると、もう聞き飽きるくらい聴いてきた曲だった。続いて、「なんだこれ?今、この浴室は80年代後半頃の生家の自室で、扉の外にいるのは父親で、聞こえてくるのは父親が観ているテレビの音声だ、と思えばまさにそんな風に錯覚できるぞ」と気付くことになった。そして、その自室だけでなく、友人や親戚の部屋にいて、それぞれ音声は隣室からのテレビの音声と思い込んでみたら、ほぼみなそう錯覚することができたのだった。面白いのは、これまでの数十年間でそうそう入浴中に音楽や映像を視聴することがなかったこともあってか、浴室とその室外という2スペースの関係は思い浮かべなかったし、思い浮かばなかったということだ。80年代後半であろうとそうでなかろうと、また、友人の家の浴室はともかく、生家だろうが親戚の家だろうが、その浴室を利用していたにもかかわらず。
 ぬるくなり始めたバスタブの中で、極端というか血が通っていなさそうにも思える考えが思い浮かんだ。それは、「元々、人間は発生時点には母親の子宮に守られて体液の中にいるのだから、よく用いられる喩えだが、こうした入浴だって、その場所を体感的に思い起こさせているのではないか?」というものだ。仮にそうだとしたらなおのこと、入浴中に昔の入浴中の記憶が鮮やかに再生されても然るべきだが、そうはならなかった。食事の1/3回近く入浴しているはずなのに、身近過ぎるということか? あるいは、次のようにも考えてみた。「生まれて母親の体外から出ていようと、地球然り、大気圏外に行く機会がある宇宙飛行士の場合だったら宇宙然り、結局ずっと死ぬまで母親的な存在の中には居続けている。そのことを意識し過ぎると、何らかの不都合があるから、自分が意識しにくいようにしているのではないか?」「外に出たいからなのか、外の情報を得ようと意識を傾けている。でも、母親に守られた安全圏からの情報収集なわけだ。その楽だった日々を、体外に出て、母親の中にいた頃よりは非安全圏となった環境下(液体の中と扉越しの観察という点だけが類似)で懐かしく焦がれるように思い起こしているのではないか?」と。