Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

手の甲

 今日は、書き方を変えてみる。頭の中の前に手の甲を見た。肌は否応なく外部情報に常に触れている。内部も同時にと言うべきだろうが。ここ最近続いた寒波の影響を受け、もとい、持ち主の私の影響を受け、手袋が使われなかった日がままあった手の甲は、数日前まで細かい亀裂が入り、所々が出血していた。今は、魚の鱗にも似た修復中の跡が現れている。こんな風になってからニベアを塗った。私にとっては恥の上塗りであり、手の甲にとっては「今頃なんだ手遅れだ」といったところかもしれない。ただ、いったん塗り始めると、繰り返し塗るようになるのだから、何とも間抜けでもある。手を洗う回数が元々少ないわけではなかったが、高止まりしている昨今、ニベアの出動も増えている。
 「手遅れだ」と書きながら「手がそう言うのだな」と自分で自分に突っ込んでいた。この類の、思考をあまり必要としない言葉遊びなら、コロナよりも私の周囲を漂っているが、こういう遊びによっても、この手の甲をはじめ、私の身体は影響を被っているのかもしれない。「ニベアの付いた手でベニア板を触ったらニベアベニア板。でも、板にとっては別にそれほどのダメージはないかもしれない」といった脱線と共に、そんなことが浮かぶ。
 手の甲には悪いが、手の甲というものは示唆に溢れていると思った。例えば、今回の変化には、魚の鱗と書いたとおり、生命の進化というか変化の一端が現れている気にもなったのだ。井上陽水には「We are 魚」という作品があるが、まさにそれを実感できるくらい、素直に魚を経て今の自分があるんだなと思った。余計ついでに挙げるなら昔、あるSNSに「猫は昔、おさかなだったことがあるんだよ」とアップしたこともあった。当時は笑ってくれる人に喜んだだけだったが、今は大真面目なことを言っているだけに映る。言い方が大いに関係しているのかと思った。これが、寒波に相当する言い方もあるのだろうと。内容、文字が音楽でいうところの譜面だとしたら、言い方は演奏に相当すると思いかけたが、いずれも、もっと混濁しているというか、内容、文字にも既に演奏は含まれているし、言い方にも譜面は含まれている気がした。前者は例えば「手の甲」を「手背」と表すことによって変化するような視覚的な印象が関わっていると思う。後者の場合は、ちょっとややこしい理由となるが、譜面で表したことを実際に演奏したら、必ずズレが生じるとすれば、そのズレとは譜面をアップデートしているとも言い換えられると思ったのだ。
 と、もっともらしくなればいいと思いながら挙げ連ねたが、真っ先に挙げるべき示唆は、自分の内面を示唆しているということだった。今回、その内面の中心にあるのは、自堕落さと愚かさだ。私自身こそズレていた。魚の鱗が出ることになる前に頻繁に手袋をしておくべきだった。でも、こう書いて、これもまた、もっともらしいことに過ぎないと思う。ニベアでは正すことはできないし、手のひらを返して開き直るのは、見えないが全身に良くない鱗を出現させるような自傷行為に思えるから、内面だと思っているもっとその奥に潜らないと真皮は見えてこないということか。