Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

あっ!3

 結局、また昨日そして一昨日の続きとなる。その前に、本日から何度か定期的に行っている断酒を実行することにした。これを書いているのは23時過ぎなので、まあ初日ということもあって、今日は大丈夫なのは間違いない。それはそれとて、こうして書くと余計に分かったことがあった。それは、定期的というのは、実際には不定期といった方が妥当だということだ。毎週月曜日の決まった時間に決まったことを実行するのでも?と考えて、どう考えても定期的なのだが、一生のような長期間で捉える場合ばかりでなく、その当人の心境といった見えない部分を加味すれば、やっぱり不定期だと気持ちが傾いた。
 続きといえば、引ったくりの話だった。これこそ、不定期の最たるものだろう。不定期でも頻度が高いのはまっぴらごめんというものだ。偶然か必然か、これもどちらに傾くのか考え出すとまた話が進まなくなりそうなので続けるが、遠い異国で初めて会った者同士が共通の人物を知っており、一方はその友人関係にあるというだけで、警戒の壁が明らかに崩れたようで、私を助けてくれたその女性は、彼氏が待っている自宅に、どうしてもホテルが見付からなければ泊まっては?とまで言ってくれた。結局、その女性からお金を借り、近隣のホテルを彼女のスマホで予約してもらい、彼女の案内でサマータイムで22時だというのに薄明るい中を歩き辿り着くことができたのだった。ごく治安が悪いという地域だったが、一人と二人、それも地域をよく理解している人とならこんなにも安心なのかと思う以前に、私はどこか浮かれて歩いていた。これから襲ってくる様々な手続きを思って、深刻となるならまだしも、サマータイムに比例したような陽気な気持ちが現れていた。明日また迎えに来るので、大使館に一緒に行きましょうと言うその女性に、感激していた。これこそ、申し訳ないという気持ちは登場すべき時に登場しないと何の意味もないという典型例だ。
 その女性のおかげで、「帰国のための渡航書(緊急に帰国する必要がある方)」の発行手続きをすることができ、翌々日にはそれを受け取ることができた。いよいよ、これで帰国できるわけだ。前日には、カード会社のパリ支店を、これまたその女性の案内で訪れ、ああでもないこうでもないと、すったもんだのやり取りに彼女や日本人スタッフを巻き込み、緊急用のカードを発行してもらい、いくばくかの現金も手にすることができた。また、その場所で友人に連絡し航空チケットも入手することができた。カード会社を出て、外のATMでお金を引き出している間のその女性の顔が思い浮かぶ。引き出し中の盗難もまた多いとのことで、腕組みをして、がんを飛ばすなどといった表現では生温いようなもっと一本筋の通った険しい表情で、警戒してるぞこら、という吹き出しがあたりに立ち込めるほどの見守り方をしてくれていた。本当に有難い。申し訳ない。
 引き出して、いよいよそれでは気を付けて帰国をという時になった。その女性が初めて侮蔑的な笑顔を見せた。申し訳ないのだが、今はそういう表情にも感謝を覚えている。その笑顔から「あまりにも他力本願過ぎますよ!」そう告げられた。そんなことを相手に言わせては駄目だし、それをここに書くのもどうかだが、少なくとも、これを書くことは他力本願ではなく、自分で自分を救っている部分が今はある。日本に、その数年以上前からめちゃくちゃ会いたくてしょうがない、気付けば気になって仕方がない、なんだこれはおそろしく好きだと思いを馳せる相手がいるだなんだと言いながら、一方でその女性に惹かれていたのだと思う。魅力を感じていたのだと思う。でも、これは性的な意味ではないのを、その時から実感していた。ここにあるのは、言葉にするなら、こんな人物がいるのか、こんな人物と会ったのか、嬉しいじゃないか、といった気持ちだ。小学生じゃあるまいしではあるが、カードや小金を持ったこともあってか、その女性と別れた後の地下鉄は、本当に足がすくんで、その女性にもらったチープな木綿のトートバッグが醸し出す非旅行民っぽさの助けがなかったら、またやられていた気もする。何とかパリ北駅近くのホテルに戻り、そして翌日、空港に到着することができた。
 3カ月後、再びパリを訪れた。変わらず、その時もめちゃくちゃ怖かった。でも、一日でも早く来たかったので、嬉しかった。わくわくがあった。興奮していた。その女性にという意味ではなく、空気という言葉だと軽すぎると思うので、状況とでも言おうか、それまでの日本での3カ月間が非現実に置き換わったような生々しい空間を感じていた。もっともらしいが、これは、大体どの空間でも生々しくできることを意味しているだろう。生々しくない空間をどう生々しく変えるか?が私に突き付けられている。移動する、それだけでは自動的に主体的であることを意味しない。むしろ、私の場合には、その土地に依拠している点で他力本願というものだ。そんなにパリが好きになったなら、ここをパリにすれば良いというものだ。
 パリへの物理的な移動という点では、その再訪からもう一度乗り換えのために立ち寄ったのを最後にコロナもあり、それっきりとなっている。この一昨日の書き出しで気持ちの変化と書いた。それは、引ったくりへの気持ちに顕著に感じる。彼らをどこか愛おしく思うようになっているのに気付いたのだ。馬鹿じゃないのか?お人好しにも程がある!という気にはなりそうなものだが、一向にそうはならない。むしろ何だか納得を覚えている。落ち着いたのか?精神状態が安定しているとでも?安定は不安定を言い換えたものだろう。そういうことにして、これで一旦終わりとする。