Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

選択

 出掛けねばならない時間、春雨が降っていた。小雨だった。なるほど、春雨というのは大降りや土砂降りのイメージはないことに多分初めて気付いた。ここで、「初めて意識した」と書いたのを、「気付いた」に直している。言語化する前に、潜在下で自分がとっくに意識はしていると思ったのだ。結局、帰り道ではその春雨は土砂降りに変わったのだが。
 出掛ける直前、コートを着ようかどうか迷った。というのも、取引先の入り口の前でコートを脱いで手に持つというのは、できれば避けたかったし、気温もそれ程は気にならなかったからだ。それほど考えることもなく、ジャケットにバッグを背負い、傘を持って出掛けた。
 行きの電車の中で、再びこの選択肢を思い浮かべていた。そして、取引先への訪問時にはなるべく着脱しない格好で伺いたいという自分なりの固定観念というか、固定観念とすら思わなくなってしまった習性が身に付いていると思った。もちろん、余程の寒さだったり、コートを着ていないと不自然なような時期であれば厭わずに着用しているが、この選択肢において、出来ることなら着ない方を選択したいと思っていることもまた不自然ではないか?と思った。
 もちろん、訪問先の相手との関係性によっても、この選択肢は変わるだろう。自然や不自然の定義は、それだけで別の記事にも発展するテーマだが、自然な、取り繕う度合いが少ないという意味で自然な関係にあれば、訪問直前ではなく、対面してからコートを脱ぐような、ちょっとだらしないかもしれないが、親密さの一端のような行動をしていても別に不思議ではない。選択肢があるだけではなく、どこまで自然体の選択を取っているか?が重要なわけで、こんな当たり前のことを改めて書かないといけなくなったのが、恐ろしくもある。これぞ、長い雨が降り続けているようでもある。
 雨といえば、別の記事で書いたかどうか思い出せないが、傘を差しても差さなくてもよさそうな霧雨がある。実際、そういう霧雨の下では、傘を差している人、傘を差していない人が混在している光景も珍しくはない。そういう光景を見るのが好きだったのだが、これは、選択肢と共に自然体の選択を見た気がしたからではないか?と思った。
 行きの電車では、居眠りをしている学生の姿が目に入った。これもまた、春っぽいなと今にして思う。その時は、こうした選択肢や自然/不自然について考えていたから、電車の中で居眠りをするのは自然なことではないか?と自問することになった。ここにも、「電車の中での居眠りは不自然」と、言語化しないまでも潜在下で意識している自分がいるように思える。自然も不自然も、雨も晴れも点滅のように繰り返している。あるいは、推移している。絶対にこれが自然だ、これは不自然だということは言いたくない。と同時に、雲の上は雨が降っていないのも事実だから、自然/不自然で区分しない選択肢の基準も求めたくなる。洗濯物を取り込むように、選択ももっと身近な行為にしたいのだ。