自然な格好
地下鉄に乗っていたら、私の斜め向かいに派手な和柄のブルゾンを纏った女性がいたからか、10年程前、「私服はたやすく制服化する」と言ったことがあったのを久々に思い出した。もちろん、この女性が制服をまとっていると言っているのではない。私服であることの難しさを言いたいのであって、それは昔も今も変わらない。
少しずれた格好をしている人を見ると安心感を覚える。もっとも、「ずれた格好」の定義の難しさを思えば嫌にもなるが、主観でずれた格好と捉えたものがそうだとしておく。思い浮かぶことは、基本的に止められないからだ。それが自然な状態のはずだからだ。一方、流れを止めることならできるはずだ。つまり、「ずれた格好→『ダメだな』『ダサい』」といった低評価や蔑視という明らかに悪い流れを、「ずれた格好→『なんだかほっとする』『これもありということだと安心する』」という流れに変えることだ。早川義夫の「かっこいいことは~」がこの段階で思い浮かんだ。冒頭を書き始めた時には全然思い出していた言葉ではなかったから、自分の言葉として考えていたのだと、少し安堵した。
さて、「ずれた格好」とはいうものの、それは意図的にずらせば成り立つというものではないだろう。あくまで自然な結果としてであってほしいと思う。ずれた格好であることもまた難しいものだと思う。また、「自然」という言葉を簡単に使っていることにも目が向かう。「大自然の自然と、余計な意図を排除した、あるいは自分の真の欲求に沿った、といった意味での自然の、少なくとも二つの自然の中で、どういう格好をすればよいか?」と問いが浮かんできた。天気予報だけでは心もとないし、自分を見つめてばかりでは天候に無頓着となり、風邪の一つや二つは引いてしまいそうだ。