Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

夜の朝

 私の場合、季節を問わず夕暮れ時は寂しく感じていることに、改めて気付いた。誰かと会うという場合には、そうでもないが、それは後ろ倒しにしただけで、その人と会った後の帰り道、真夜中だろうが遅れてやってきた夕暮れ時の寂しさを味わっている気にもなる。
 もう間もなく一日が終わるのか、終わりに向かって進んでいるのかと無意識にも追認しているからかもしれない。誰かと会うということは、何かトラブルや訣別のためといった場合はともかく、終わりを一旦中断する作用をもたらすのかとも思った。
 それでもと、例えば朝まで飲んだりして朝帰りとなった場合を想像してみると、その夕暮れ時は朝までは追い掛けてきていないような気がする。トワイライトゾーンというのだったろうか、明け方と夕方ははっきり違うのだが、どことなく似ているといえば似ている。特に加工などしなくてもスマホで撮影した画像レベルで、本当は明け方なのに「夕方ここにいたんだ」と言われたら、タイムスタンプを見なければ信じてしまうくらいの類似度はあるだろう。夕方についてしか考えず書き始めたのだが、朝の持つ力を思う地点に来た。単純に嬉しい。
 そういうものの、若い頃、とりわけ若い幼少期や小学生時分、いや高校になってから、何なら20代30代でも、とにかく朝はぎりぎりまで眠っていることが多かった。明け方や夜明け前の短い至福の味わいとでもいうべき時間を待ち焦がれるように、がばっと起きるなんてことはほぼなかった。もちろん、そういう朝が嫌いだったわけではない。正確には、好き嫌いの対象ともなっていないくらい贅沢な素通りをしていたのだ。水道水の蛇口を締めずに数日間不在にしたような勿体ない外出を数万回繰り返したような気分になる。
 それでも、三つ子の魂何たらで、今でも変わらず朝は苦手といえば苦手である。目覚ましに気付かず寝過ごしかけていることも年に数回はある。でも、昔と違って朝をはっきり好きだと自覚するようになった。余計なことかもしれないが、昼夜逆転でしか成り立たない(とされる)仕事があり、完全に自動化がなされているわけではないから、そこに従事する人も沢山いる。そういう人にとっての朝はリアルタイムでは夜の時間帯となるが、その夜の時間帯にこの私が体感するような朝の効果を、彼らは得ることができているのだろうか?と思った。そして、そうではない場合の方が多いと想像した。彼らにとっても、朝はリアルタイムの朝ではないか?と思った。目に見える、あるいは肌で感じることのできる太陽の有無の違いを無視できなかった。
 夜に太陽の代わりとなるような存在はあるのだろうか? そもそもこういう考えが間違っているのだろうか? どうしても、代わりとなるとすぐに人や人の手によるものではないか?と考えそうになる。「月がそうなのだ」とでもいうことができればいいが、どうも実感が沸かない。こういう昼夜逆転への対応についても、何らかのテクノロジー的な解決を求めるべきなのか?とも浮かぶ。もし、そうだとしても、その前にテクノロジー以外の方法を極力試してからにしてほしいと思う。人では何が十分ではないのか?がまだまだ眠ったままのように思えるからだ。