Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

悪の野良猫

 先月末から日本の原風景、否、良心といった感あるとある田舎町にいる。夏が完全に終わり秋、否、晩秋を感じさせる風が吹いた今日、何とか午前中にバス停に辿り着いた。眼前の草むらには野良猫と思しき白黒模様の猫が全身を露出させていたが、スマホで撮影しようとしたら草の中に消えてしまった。その時、ふと頭の中に「あらゆる、それこそ国家の存亡につながるようなものを含めた、ラーメンからミサイルまでの災難の原因に野良猫が関与しているという話を書いてはどうだ?」と浮かんだ。すぐに、「なるほど、野良猫を悪として描くが、それでも野良猫は愛しいままの存在だということを表したいのだな」と自分で自分に突っ込んでいた。
 書いていて、直近に思い浮かんだもの同士という意味で、猫の額よりも狭い物事や出来事同士を無理矢理結び付けるようだが、それでも、この田舎町と野良猫というのは似た者同士として重なってくる。そうなると、田舎町にある、直接的には放ってこないが陰湿な村八分的共同体としての一面が、野良猫にもあるのでは?と想像し始める。完全に一致するものはなくても、野良猫の社会通念に照らし合わせた場合、野良猫にも理不尽な一面はあるはずだと思い始める。それはもはや、きっとあるはずに留まらず、あってほしいという願望レベルに膨らんでいる。
 考えてみれば、物心ついた時から私には、無邪気な、普通に考えれば罪のないものや、善で語られるものに、悪の面を見出そうとする一面があった。但し、それは何も、悪い面をして、対象を否定するために粗探ししているというのではなかった。むしろ逆で、その対象を好きになるためにこそ、悪い面を見出したいと考えていたように思う。当時から今まで、こんな風に言語化を試みたことはおそらくないままだった。
 実際の野良猫をはじめ、人間以外の生物や、さらにはひょっとしたら自然現象に至るまで、何がしか意識を持つ存在について語る時、それは人間以外の何物でもないのだろう。だって、本当のところは分からないのだからと思う。擬人化の前から擬人というわけだ。美人薄命の逆で、擬人長寿とでも言い表せそうだと言葉遊びが浮かぶが、同時に、人以外の、擬猫化をはじめ、その対象が対象自身に喩えて物事を捉えようとする動きだってきっとあるはずと思う。そして、鏡のように、この思いがいつかは対象に伝わるはずだ、そのためにも世界に触れ続けねばと思う。擬人ばかりではなく、自分が野良猫や風になってみれば当面はいいはずだと思う。

ポピュラー

 最近知り合った外国人の青年に「どんなアーティストを聴いている?」と尋ねられた。彼の回答は、トム・ジョーンズだった。名前だけ知っていたつもりだったが、どんな音楽だったか皆目見当が付かず調べて、ポピュラーなのに全く素通りしていたことに愕然とした。
 それ以上に自身の回答を口にした直後、もっと愕然とした。「ビートルズ。あと、ローリング・ストーンズ。それと……レッド・ツェッペリン」―。聴いているし大好きだという点で事実ではあるが、何というポピュラーな、それでいて感情が籠ってもいない教科書の例文のような回答なのだろうと思ったのだ。本当はもっと沢山あるのに、と。
 ポピュラーに掠りもしない状態になっていることと、対照的に、ポピュラーの引力から逃れられないかのように圏内にとどまっていることの両方があり、滑稽に思う。ただ、滑稽とばかり言ってもいられない。それはこの場合、考えるのをやめる姿勢を隠す都合の良い言葉でもあるからだ。
 掠ることくらいはできており、また、青年が知っているかどうかは意識せず、ただ自分の好きなアーティスト(例えば、ジミ・ヘンドリックス、アズテック・カメラ、矢沢永吉etc. いずれもポピュラーもポピュラーであるのが、またしても滑稽ではある)を発した結果、ポピュラーの引力から脱しているという実感を得ることができる回答となっている、そんな状態であるなら、それはそれで良いことだろう。しかしながら、結果はそうならなかった。「何がポピュラーで、何がポピュラーでないのか?」という問題を既に前文を書きながら思い浮かべていたが、それは難しい問いとなるため、またの機会としたい。ここでは、ポピュラーか否かは、自分と会話の相手の関係において判断するものと捉えた。もっとも、全然把握していないから冒頭の会話となるわけで、より正確には、自分にとってのポピュラーか否かと、自分が想像する、会話の相手にとってのポピュラーか否か、と言い換えたい。要するに、忖度に似た妙な謙り、あるいは卑屈な態度が露呈しているというわけだ。歪なコード進行よりも気持ちの悪いムードが漂い、嫌になる。
 ともあれ、現実を見てみる。掠りもしなかったトム・ジョーンズについては、「そういう生き方をしてきたからだ」と言われても否定はできないが、それだけで善悪の判断まで付けられるような事態ではないだろう。一方、良い面も悪い面もあるとなら考えられるはずだ。この場合、良い面は、「独自路線を歩んできた。多数派に流されなかった」、悪い面は、「バランスを欠く情報の摂取」といったことが挙げられる。青年への回答についても良い面、悪い面を探してみると、そういう気持ちの悪い考え、態度で回答した結果なだけに、悪い面ばかりのように感じる。何か良い面はないのか?と絞り出すように考え、「影響を受けないことを目標とする、その対象を浮き彫りにしたこと」と浮かんだ。
 この二つの出来事を元に、「ポピュラーであるものにはポピュラーでない一面を見出すことで対応すればよい。ポピュラーでないものには、ポピュラーの立場を与えるかのように、ポピュラー云々を気にせず口にしたり扱えばよい」という考えも浮かんだ。「ポピュラーでない一面」とは、それを発している人間、今回の場合だと青年がそれを選んだ背景といったパーソナルな一面だ。「その名を発する人や会話の数だけ、異なるトム・ジョーンズが存在する」と浮かんだが、またしても都合の良い言葉に聞こえる。都合の良い言葉やうさん臭い言葉もまた、組み込む文脈によって意味を変えるのなら、文章を書く、あるいは、長い文章を書く行為に、改めて信頼を覚える。この考えがポピュラーであろうとなかろうと、この考えを元にする、つまり、この考えが組み込まれる別の考えや文章がアーティストの比ではなく存在するはずだ。会話も文章も終わらないというのは、音楽よりも音楽的な物言いだと思った。

反復猫跳び

 レジ前について未だに思うことが尽きない。最近気になったままだったのは、二回、同じ言葉「ありがとうございました」が繰り返されることだ。「ありがとうございます。またお待ちしております」といったバリエーションはあれど、同じ言葉の繰り返しには変わらない。
 すぐに、「間が持たないから繰り返すのだ。無駄話の一つもする方が余程まともだ」と思った。つまり、支払ってすぐの1回目と、お金やカード、あるいはスマホをしまう時の2回目で、その繰り返しは発生している。
 無駄話をしている光景に遭うことも少なくなった。自身が無駄話をしていた頃となると、もう数十年は前のことだ。こんな回顧が続く。いずれにしても、直接的なことに対して間を設けることの不足や重要性を挙げたいと考えているのは間違いないだろう。
 程なく、「文章における間も問われるべきではないか?」と思う。ここでの更新頻度や、文章内での間のことだ。それだけではなく、頭の中で浮かんでから、それを文章化しようとする間も該当するだろう。
 しかしながら、数秒でも数分でも数日でも、何かと何かの間という点では同じだ。実際、前段落までを就寝前に書き、この段落から今朝書き始めてみた。間を取った実感ならあまりないままだ。「間というのは時間とはあまり関係しない。だから間の取り方が大切だ」ということだと、説明不足で、それこそ間が抜けた回答だと思う。
 再び、冒頭のレジ前に戻ってみる。私は同語の反復に、無味乾燥した印象を覚え嫌気を感じた。これは間違いない。なるほど、この場合、反復よりも、無発言=間である方が私に対して反応してくれたことになる場合があり、それを求めていたのだと思い、「間とは、対象への観察と反応」だと定義してみた。前述の「間の取り方」に対しても多少回答できた気がする。
 駄洒落となるが、反復横跳びが影響して、「反復猫跳び」というのを、数年前に思い付いたことがあった。それは、「猫を飼っていない。だからベッドにはいない。猫を飼っていない!だからベッドにはいない!」という一文が思い浮かんでFacebookに投稿した後、この一文に対する説明として思い付いたものだ。Facebookではそれなりにウケて嬉しくはあったが、!が付与される以外は同文の繰り返しなのに、印象が変わる点が気になったままだった。他にも同様の文章をと考えたまま、放置していた。
 今は、意図してそういう文章を考えなくて良かったように思う。前述の「猫」が、何らかの対象に向き合った結果、その反応として浮かんできたものだとしたら、別の同様の文章も、同様の反応があれば自然に浮かぶはずと思うからだ。意図することを何故か避けたい理由を考えずに逃げているのかもしれない。自分の中の気まぐれな性分を猫的に捉えるなら、その猫もまた追わなければ戻ってくるだろうと都合よくも思う。「そうか、気まぐれというのも間だな」と思う。気まぐれなレジだと困惑することだろうが、悪くない気もする。

と

 昨日、ふと気付いた。『どんなに長い文も、品詞単位でつながって成立している。全て「〇と〇と〇」のように、「と」を補うことができる』と。改めて例文を挙げるなら、「私はあなたに会いたいと思う」の場合、「私」と「(以下、同様に機能によって助詞が使い分けられる。この場合は、前の語を主語として示すための)は」と「あなた」と「に」と「会いたい」と「と」と「思う」ということだ。実に当たり前のことだが、最近、この場所で「〇〇と〇〇」の形式のタイトルが続いていたことが大いに関係しているだろう。良かったのは、否定文であっても「と」というつながりを含んでいることからは逃れられないと気付いたことだ。
 長い文とした通り、程なく「短い文はどうだ?」と思い、例えば「痛い!」といった最も短い単位である品詞1つの場合を思い浮かべた。すぐに、前述の「と」を補う余地は見られないと思う。でも、それもまた当たり前過ぎることだ。数分間考えていると、「同じ言葉でも、発した数だけその背景は異なる。発する際の感情もまた。となると、同じ表記であっても、意味は異なるといえるのではないか? こうなると、長文だって同様で、もはや発した言葉の数だけ異なる言葉だといえる。無限の言葉が存在することになる」と浮かんだ。
 根拠はないが、こうした「無限」には、うさん臭さと考えることからの逃避を見てしまう。もっと細分化できるはずだろう?と。然るに、次のように考え直した。―「言霊のように、言葉に発話者の感情や念や思いが籠る度合いは、短い言葉である程高い。それは、自分以外のそうした感情類を借りているためであり、長い程、『返済』が追い付かないからだ。」「つまり、累積的に感情が言葉に籠るのではなく、上書きされたり、集約されたり、混合したりするのだろう。そうじゃないと、容量の重過ぎる電子ファイルのように、人が扱えるものではなくなるのではないか?」
 一方、そうして言葉が変化する際、意味がどんどん先鋭化したり、多重化したりするのとは逆に、どんどん意味が希薄になるという方向でも想像が働いた。これは意味がなくなるというわけではなく、情報の変化の回数が上がるにつれ、意味と意味に壁が薄らぎ、溶け合うといったイメージだ。これには、以前考えていた「『風が吹けば桶屋が儲かる』のように、どんなに無関係そうな物事の間にあっても、その中間にあるものを省くことができたら、直接つながっているといえる」が影響している。極論すれば、「どんなものも互いにつながっている」というわけだ。でも、一足飛びにはなかなか他者の同意は得られない。「もしかしたら、あらゆるもの同士を、つながっていると体感できるようにすることが、人の役目かもしれない」とも思った。
 ここで、「それで?」という返答のセリフがあるのを思い出す。これは直接的にand=「と」を感じさせるが、その実、その表記とは裏腹に、拒否を示していることが多いセリフだろう。臆病者だなと思う。人は臆病でもあるがゆえ、ここまで人を続けてくることができたはずだ。なるほど、臆病にも当然種類があるわけだ。「と」のない臆病は、人にとってやばい病気だと思った。今頃気付いたが、将棋の「歩」が「と」金に変わることも何やら象徴的に映る。穴熊という戦法があるが、誰かが守ってくれるから、籠っていることができる。言葉を使うということもまた、誰かが守ってくれているからだと分かる。根拠はないが、誰かを守ることも同等に求められていると思う位でちょうどよいと思った。

猫と喜怒哀楽

 先月末から、寝そべった猫が当たり前にいる環境にいる。幸せなことだ。気付けば、近くを通り過ぎても、そんなには逃げられなくなった。
 猫と遭うとまず顔を見ているのは、ありきたり過ぎるかもしれない。この点に関しては、私の方の変化はまるでないといえる。でも、最初に顔以外を見る人がいるのだろうか?とも思う。全身を捉えているのだとしても、その全身を象徴しているのは顔のはずだと思い、なるほど、猫や猫以外の大抵の動物は、顔が全てなのだなと思い、人間のイケメンか否か、美人か否かどころじゃない面食い、顔ありきの状態だなと可笑しくなる。さて、身近となった猫はといえば、数種類のうち、灰色のそれはガンダムを彷彿とさせ笑ってしまった。
 「それではまず顔のどこを見ているのか?」と自問が浮かんだ。狭い額だと、射的の当たりのようで、より優れた回答のようだが、実際はやはり目だと思う。閉じかけている時、見開いている時、普通と思しき開き方の時と細分化してみたが、喜怒哀楽の尺度では、喜が感じられる目を見た記憶がほぼない。口元が笑っている風に見えなくもない、眠っている顔については喜かと思えなくもないようで、楽の方だなと思う。
 「猫は喜ぶ表情を見せない」とは、とても言えない。ちゃんと一緒に暮らせば、きっとそういう表情にも邂逅できそうだし、何より、SNSでAIではない、喜んでいるに違いない猫の表情を見たことがあるからだ。
 私に問題があるのか、喜というのは無防備過ぎるがゆえ人前に晒すのを避ける性質等、猫側に原因があるのか、あるいはその両方か、答はここでは導き出せない。こういう場合、間違いないことを一つでも挙げ切り上げようとするのが常道のようになっている。間違いないと思うのは、猫の喜の表情に遭ったら、こちらも喜の表情になるはずということだ。でも、その後、こういう時間も長くは続かないとか何とか思い浮かべて、哀となるだろうと思う。否、いずれ哀となるにしても、その前に楽しい気分で楽になることだってあるだろうと思う。なんだか大昔のテレビのチャンネルみたいで、楽しい気持ちになった。そして、すぐに哀しい気持ちになった。こうしてみると、哀から別の感情にそれほど真を開けずに進むということが、ほとんどない気がする。そして、猫の哀の表情は、喜と楽の違い以上に特定が難しそうだと思い当たる。

構造と骨抜き

 先日観た『開戦前夜』は、劇場から外に出た途端、目に映る光景が悉く、映画で描かれた1941年頃に思えた。特に、顕著だったのはショッピングモール内だった。嘆くべきところだろうが、その前に、新鮮だった。この新鮮に感じるところにこそ、嘆くべきだとは今思ったことだ。
 骨組みは何ら80数年前から変わっていないとして、こうも簡単に従来の光景が変わるのに、映画を観ていなければそのままだったというのも嘆くべきことかもしれない。社会はおろか、自分自身の存続を、いかに他人任せにしていることかと思ってしまう。
 視聴後の同様の変化あるいは効果として、古くは、高倉健の映画が浮かぶ。『網走番外地』等、健さんの映画を観終えた観客は映画館を出た後、健さんになった気持ちになり肩で風を切って歩いたという話を、その昔、雑誌等でよく見かけた。後追いだが、私も30数年前に、同映画を網羅的に視聴して、熱中したので、その光景にはリアリティがある。
 さて、1941年のままの光景にしろ、健さんになりきるにしろ、他人が作った映像で、自らが即変化していくのには、結果がいくら無害で無邪気であろうと、やはり釈然としない気持ちが残る。すぐに「そんなことを言ったら、言葉を含む、あらゆる自分以外のものが他人によって作られたものだ。つまり、自分で能動的だと思っている動きすら、他人が作ったものの影響下にあるはずだろう?」と突っ込む自分が現れる。だが、今回はこうした突っ込みに「程度の問題がある」「他人が作ったものは一つではないのだから、影響を受けているものの数や影響度の差が問われるはずだ」と突っ込み返すことになった。つまり言葉レベルでの借り物状態については、同時に問われるべきではないと考えた。同時に問うことで0か100か状態を生んで、結局、問いから逃避するということをやりがちだ。
 こんな考えが現れるくらいだからか、劇場での映画鑑賞に限っては、映画館を出る前に「上映作品の影響をゼロに近付ける別の映像」があると良いと思い浮かんだ。お清めの塩のようでもあり、安直に思うとともに、あくまで他力本願だなと嫌な気持ちにもなる。
 劇場と言えば、「劇場型犯罪」という言葉を知ったのはいつ頃だっただろうか?と浮かぶ。昭和のうちに知ることができたはずの言葉だが、平成初期の気がして、周囲に守られて安閑として生きていたことが透けて見えた気がして、また嫌な気持ちになる。内に対しても嫌な気持ちなら、外に対してはもっとで、今の報道で知る世界は劇場型犯罪の塊にも映る。いつしか批判はおろか、悪態レベルの発言を、一つ一つの報道に対して、放っていることも増えている。
 そんな批判や悪態は、後に同類と呼ばれ得る度合いの高い他人の共感を得やすいものばかりだと気付く。自らの批判や悪態が、かっこ悪い健さんとなって一人歩きし、別の健さんを増やしていくイメージが浮かんだ。そういう同類内の正論、もとい、同類でなくても正論という対岸からの投石行為を繰り広げていることこそ、ほとほと嫌になってくる。これぞ、嫌悪すべき対象だと生理的に分かっている気がするので、幸い、ぎりぎりのところで、自分に踏みとどまっているといえるかもしれない。
 それにしても、参るのは、共感できる報道、出来事でも、それらは共感できない側によって仕組まれたものなのではないか? と疑うようになってしまったことだ。この構造は1941年どころか、有史以来とは言わないまでも、はるか数百年前からあるものではないか? と思う。構造という他人の骨を無効にする、つまり骨抜きにするのは、自分でしか担えないと気付く。自分を骨抜きにするのも自分だけであれと、今は強気なことを思う。この「健さん」は、誰が作ったものか? 自分によるものだとしたら、逆に、他人の手を借りねばいけない気がする。

問い

 引越しの際に古いノートを廃棄できないのはまだ当然として、デスクトップ上にあるメモの類やSNSへのポストの一部を素材として、この場所への文章を作成するのも当然のことだろうか? 「そうする必然性があるならすればいい。当然も当然のことだ」と自答しながら、だけども問題は別にあると思う。
 それは、私の場合、記述内容以前に、過去の記述という過去の産物に気持ちが引かれているということだ。つまり、楽をしてでも形にしたいというわけだろう。言葉が借り物である以上、ゼロベースからの記述は存在しないとしても、ゼロに肉薄した地点から始める方が格好良いと思った。
 今夜これを記述しながら、ゼロベースに接近するのにあたって万能だと思ったのが、今朝浮かんだ問いだった。それは、「人類がまだ気付いていないことは何?」だ。気付いていないものを言葉で表現するのは矛盾しているようだが、我々人類には「〇〇といったこと」「〇〇のようなこと」という物言いがある。こうした物言いを活用しながら、回答を重ねたら、視界が開けるし、後ろ髪を引かれる思いも払しょくできるのでは?と思った。