今頃気付くことがあるのは、幸せなことなのだろう。根拠はないが、そう思うことはできるという実感なら少なくない。昨夕、静岡のとある町の海岸沿いを歩いていると、やけに海からの風が強く、砂がこちらに吹き付けてきた。広島も海沿いだったと思いながら、暮れる空を見ていた。数日前に気付いたことだが、19時を過ぎて海側の空は真っ暗になっても、反対に陸側を振り返れば、まだ多少明るさが残った空が広がっていた。不思議な気になったが、答えを探す代わりに、海=生命の母というステレオタイプのイメージが現れた。母ゆえに、胎動している状態を湛えているゆえに漆黒のような暗さがあるのだと。また、前述の風も同様に、母ゆえに陸に向かって吹き付けるのだと。そして、一人、次のように考えた。
―そうなると、海は陸地を造成する一方で、人間にとっては害という意味での砂や風を陸地に送り込んでくる主でもある。ここで、そうした自然を利用しながら、自然の脅威を克服するのが人間だったというのでは、実にありきたりな話だ。自然現象に良い悪いもないのなら、脅威というのはあくまで人間の都合でしかない。
一方、こうも考える。人間が作る自然でないもの、人工と呼ばれるものは、「人間による自然」と言い換えられなくもない。そうなると、この自然は、良い悪いを持ってもいいはずだ。この良い悪いは、人間にとってのみならず、人間以外の動物をはじめ他の生物や、地球や宇宙といった、人間の周囲にある、あらゆる外部環境に対して設けることができる指標だろう。
極論かもしれないが、海が悪という概念を、陸に上がった人間に送り込んできたのだとしたら、その悪の概念を変容させるのが、人間による自然というわけだ―
この「人間による自然」のうち、良いとされるものを破壊すると、人間自体が直接的かつ、時には即効的に消滅してしまうことは想像に難くない。でも、この破壊行為自体を消滅させることは不可能だとも思える。また、不可能だと考える方が自然な気がする。そうなると、ビオトープではないが、全体に影響が及ばない範囲で、実施できる実験エリア的な空間を、ちゃんと機能するものとして保有し運用し続けることはできないのか? と思う。
続けて、一発の爆弾で、「人間による自然」のうち、悪いとされるものを消滅させることを想像し、再び根拠はないが、それが成功しようがしまいが悪夢だと思った。
アーツ前橋「ぬけみち展 かわす・つくる・ともにいる―生きるための回路」を訪れた
7月末、アーツ前橋で開催の「ぬけみち展 かわす・つくる・ともにいる―生きるための回路」を訪れた。1時間半程度で会場を後にするとすぐ、心地よい違和感を覚えていた。どこまでいっても個人的な体験だとしても、その情報量や質量の大きさとは別に、おなか一杯感だったり、その逆に「形式的にただ回遊した」といった欠落感に代表されるネガティブな感覚をまるで覚えない展示だったのだ。これまで多くの展示会で、それらの感覚に陥ることがあった。「こんなにたくさんの情報をとても観て回れない。仕方がないので、〇と〇に絞ろう」と考え、絞ったことに小狡さと気持ち悪さを覚えることがままあった。
続いて程なく、この体験をまとめておきたいが、いつも陥りがちな総花的な記述を特に避けたいと思った。総花的というのは、今やネガティブな意味を含んで使われているが、全方位的に意識を傾けている様を含んでいる点で、元々は必ずしもネガティブであるとは限らないようだ。しかし、私に限って言えば、網羅的に捉えようとするのは結構だが、いつもその深度は浅いままだった。この深度については後述する。言い換えれば、気持ちの上では網羅的であろうとしているわけだ。でも、この姿勢は決して真っ当とは思えず歪に映った。すぐに、この展示と対照的な姿勢ではないかと結論付けていた。
再びネガティブな意味合いが強い別の言葉を、本展への誉め言葉として用いる。本展は良い意味で「金太郎飴」的にどこをとっても一貫性のある空気を含んでいたと思う。そこには、非総花的な、タイトルにも現れているがぐっと対象を絞り込んだ姿勢がある一方、世界を捕捉することに関して、むしろ網羅的な状態を生み出していると思う。
ここに痛快であり爽やかな印象を覚える。対照的な姿勢と前述したが、この展示は、どういう姿勢で成り立っているものなのか?と想像する。今回、重要なキーワードに「ずらす」とあるが、本展について思い返す時、歪という意味でのずれはない。日常や世界に散見している歪なずれを見つめている本展の展示自体が歪ではないということはどういうことか?
当然、そこには世界をより良くしたいという希求があるはずだと思う。私は、歪なずれを見つめた時間や態度が多数含まれているのが、本展だと思った。それは個の分断や人種の差別や迫害を喚起する外国人技能実習生のみならず、正統的な基準とされ権威と化している「衣服」「文字」自体を取り上げていることからも伺えるだろう。世界を良くするための効果的な組み合わせ、それが今回の決して点数は多いとは言えない展示につながったのだとしたら、そこにあるのは企画者や賛同者の本気度といった気持ちになるのではないかと思う。この点、関係者は相当本気だと想像した。そして、これが公立の美術館であることにも、全方向に開かれた場所という点で、効果的な組み合わせと関係者の本気度を見る。
一方、自らの姿勢を肯定したいのか言い訳も浮かぶ。仮に総花的だったり網羅的であると思ったところで、それは断片的、局所的である状態から逃れてはいないのではないかと。これが真だとすれば、絶望的でありつつ希望でもあるのだろう。
間違いないのは、どんな姿勢であれ、対象であれ、その姿を捉えたり語る際の深度を深めるのは、いずれの場合も間違ってはいないはずということだ。極論すれば、(ずらす等柔軟ともいえる視点とは異なる)穿った見方や固定観念から出発しても、深度を深める過程では、そうした姿勢は変化していくとも思った。同時に、姿勢の変更なきまま深度を深めることができるのか? できるとしたらどういう場合だろう?とも浮かんだ。
ここで、「穿った等、良くないはずの姿勢でも深度を深めることができる」可能性を残している点に目が向かい、自分を少し肯定できた気になった。一般的なはずの方向、つまり、ずれていないといえる見方で捉えたら、そんな姿勢で深度を深めていけるはずはないとなるのが普通だろう。でも次のような見方もあるはずと浮かぶ。その一般側がずれてしまい、後の世から眺めたら歪な姿勢を取っているとしたら、その頑固な、穿った見方は実は良い姿勢という場合があるのではないか?と。
いずれにしても、互いが眺め合う、あるいは関わりあうことが必要だと思い付く。同類の者と認識している者か否かを問わず小集団が乱立している状態、そういう相対的な状態にこそ閉塞感を覚えることにも思い当たる。思えば、いつからこんなに断言をしなくなったのか?いつから非制限用法よろしく、一文中に、言い訳がましくも映る括弧書きを多用するようになったのか(その一例が、こういう括弧書きだ。今回は意識して前述の一カ所しか使っていない)。
私あるいは我々は、断言を避けるようになった時間をもう何年も過ごしていると気付く。断言できないことの増加は、右肩上がりに近い点でちょうど往年の経済成長のようでもある。それなのに、閉塞感については、はっきりあると断言できる。全ては繋がっている故、この展示会同様、どこを切り取っても一貫した閉塞感があるのかもしれない。そんな妄想あるいは仮説と共に、「この閉塞感たるや、随分、閉塞感としては本物だ」と浮かんで、一人笑い、真顔に戻る。閉塞感というより閉塞状態だと。
でもやっぱり感に戻すのは、実際には、こうして本展を訪問できたりと、ニュートラルというか、生活できているにはできているからだ。この「感」という物言い自体、断言できなくなった状態を如実に表しているようで滑稽に映りもする。
さて、ここまで読み返しても、この展示会の質量に対して、十分な感想を述べたり、思索を巡らせたりできたとは言い難い。それができないのは感じる力と表現する力の不足、あるいは、その力をふり絞ることに関する怠慢や諦めのせいだろう。ここに一つの解のような問いを思い付く。たとえ、今回のように、展示内容の変容という点で何度も訪問することが前提となっている展示であろうとなかろうと、複数回訪問することで思索を維持できるのではないか?と。
これについては究極的な回答を返しておこうと思う。人生は一度ゆえ、複数回と回が分かれる、複数回機会を持てることには意味があるではないかと。一回だけで捉える場合もそうでない場合も共に意味があり、後者に意味を自らは見出したということになる。思えば、二項対立の捉え方をしている場合、いずれか一方に収斂させようとしていることがある。その究極が生:死かもしれないが、この構図自体が総花的にも映る。どちらに収斂しても思考停止をごまかしている気がする。
それでも想像することに意味があると思うので、今後も本展を経験したことを意識した考えを続けてみようと思う。何故なら、本展から数日を経て、「今想像する、将来の自分がこの展示を振り返って考えているはずのことは、きっとこの展示会の感想として、より正確なものだろう」と浮かんだからだ。結構当たり前のことのようだが、しばらくもやもやと考えては忘れ、また別のことをしていては思い出し再び考えるという一連の動きを繰り返しているうちに、ふと浮かんだことだったので、信用できたのだ。
具体的な展示内容についても、絞って挙げておきたい。イタリアはミラノの市民センターの取り組みが壁一面に多数貼られていた。撮影禁止だった。印象的だったの「今も在るかは分からない」旨注意書きが明記されていたことだ。今回、全体的に(また網羅的に語ろうとしているようだがそれでも実際に行ったことなので添えておく)キャプションをなるべく読むようにしていた。このイタリアの展示では、特にキャプションが多かったので、内容とも相まって体力を消費した。展示に対する最低限の敬意だと思いたい。
何故印象に残ったのかと考えると、これまた自身のリテラシーや知識の状況に依存しているが、「多数勃発している、重い動きなのに、私は全く知らないでいた」「この動きに賛同した」からだと思った。言い換えれば、視点をずらされたとも、視点を一致させられたともいえる。ぬけみちは抜け道の表情を伴っているとは限らないとすれば、ぬけみちは見えるものとは限らないし、今ないものが在るかもしれない。その逆も然りなら、それもまた、絶望的でありつつ希望でもあるのだろう。
実感よ止まれ
今までで一番長い期間、髪の毛を揃える程度にしか切らず伸ばし続けている。来月で2年となるが、前回の十数年前なら1年半程度で今よりも長さは長かったという実感が残る。加齢による発毛速度の変化ということもあるのだろうが、それだけには思えない。というのも、あくまで実感ということなら、時間に比例して長いと感じるとは限らないという気がしているからだ。要は、1年半の時の方が2年目よりも長く感じるということはあると思ったのだ。
そういう実感を大きく左右するのは何だろう? と思って、まず見た目がすぐに続いた。続いて、重さや手触りが浮かんだ。いずれにしても、実感というからには、強引に思い込むといった状態ではない自然な状態で、「本人がそう感じれば、正しい正しくないではなく、それがその答なのだ」というものを指すと思う。こう思ってすぐ、多かれ少なかれ、全ては実感ではないか!?という突っ込みからは逃げきれない気になった。
数字的な根拠があれど、そこから結論に至るラストワンマイルなのかラストワンミリなのかは知らないが、途中に存在している隔たりを通過するには、この実感がものをいうはずだ。AIが結論を導こうが、それを人間が参照する際には実感が働くはずだ。ここまでとして、今回は落ちがないこと、あるいは既に落ちがあることを書き残しておこうと思う。
その舌の根が乾かない内に「かつて『時間よ止まれ』というヒット曲があった。それを言うなら、『実感よ止まれ』ではないか?!」と駄洒落が浮かんだ。でも、あながち間違っていないと思う。この歌が流れていたことはまるで記憶にないが、当時、とうに物心はついており、小学二年生から三年生へと向かう時間を過ごしていた。集団登下校というものがあった。その通学時の路上で、決まって見掛ける青年男性がいた。長い脚が印象深い、フェードアウトしたブルージーンズにブーツ姿だった。当時の方が近年よりも周囲に背の高い若者が多くいた実感がある。と、ようやくここで気付いた。「大きいことはいいことだ」ではないが、長い方を無条件で上位に置いている。短い方や小さい方を上位に置くぐらいのことをしても良い、長い時間を過ぎているというのに。
曖昧な海
熱海駅で車内の路線図を見て思った。静岡やおそらく長野は、今東京寄りにいるのか、愛知寄りにいるのかが体感上曖昧になり、それが心地良くもあると。
亡くなった友人と4年前に過ごした熱海を否応なく思い出しながら、その熱海も山側を中心にしていたのを可笑しく思いながら、楽しさにも悲しさにも寄っていたなと思った。生寄りなのか死寄りなのかと軽口に思える考えも浮かんだ。
3時間ばかり過ぎ、熱海駅に隣接している喫茶店でこれを書きながら、「東京にいて静岡寄りなのか茨城寄りなのかといった考えが浮かばないのもどうかしている」と、東京以外のことを東京で意識しているようでその実、そうでもないと思った。
こんなことを言い始めたら、この曖昧一つとっても、曖昧寄りであって、他の要素が曖昧には混在しているのにと思う。まるで、それは音楽のコードや響きのようでもある。人類がメジャーコードとマイナーコードの境目を曖昧にするようになってから、もう何年経つのだろう? あまり大して時間は経過していない気がする。
そうこうするうちに、寄るに対しても寄っているわけだと考えた。言葉にする意味もあれば、言葉だけじゃ足りないということに意味もあると思った。漂っているのなら間違いないように思える。熱海でなくても、山側にいても、曖昧な海に。そう、突き詰めようとも突き詰めなくとも、曖昧という状態の海には浮かんだままなのだと思う。
必要善
深夜でも煌々とした光を放っている電灯が、先日から気になっている。周囲の明るさに合わせて、輝度が変わっているわけではないだろうから、灯っている間はいつも一定の明るさのはずで、また、もう2年近く傍を通っていたはずだが、どういうわけか先日、深夜帯に通り掛かって、惹き付けられた。飛んで火にいる初夏の中高年という、なんだかカッコ悪い言葉が浮かぶが、そんなことより気になるのは、十分読書でさえ可能な明るさなのに、その周囲に立ち止まって、スマホを眺める人自体見掛けたためしがないということだ。
スマホはそれ自体にバックライトがあるから、そんな明かりの助けなど不要ということではないだろうが、理屈で考えたわけではなく、この電灯を意識し始めて最初の頃に浮かんだのは、「『電力が勿体ない』と浮かびそうなものなのに、私ははっきり楽しい気持ちになっている。せっかくの明かりが勿体ないから、本を持って街に出て、この電灯の下で読書しようというよりも、むしろ贅沢な体験として、この場所で読書したいという気持ちの方が強い」というものだった。
翻って、帰省時だったり、一人旅で都市ではない町を訪れた際には、目を瞑って歩くのに近いような暗い夜道を歩くことが、多くはないが決して少ないとはいえない。そんな時、恐怖でいっぱいかといえば、そういうわけでもない。これはこれで贅沢な体験だと感じる。要するに、明暗いずれも必要なのだという説明でも、別に間違いではないだろう。
今夜、白色の傍を通り過ぎながら、「この輝きは善を喚起するが、良いものばかりでなく、悪いものから何から集まっているからこその白色なのだろう」と思った。そうなると、前述の暗も然り。ここで、この集合状態に関して、多様性という言葉より必要悪という言葉の方がしっくりくると思った。でも、それなら必要善という言葉も用意しなければと思い直した。
地震地震地震親父
おかしなくらい、梅雨らしい梅雨が続いている。その前は、五月らしい五月だった。異常ならぬ通常気象。それの何が悪い?!と自分で自分に突っ込めば、確かにそうだと自答する。かつての当り前の気候に反応する自分もまた異常というわけか?
さりとて、異口同音に同じことを思っている人も少なくないとしたら、異常というのは通常と表裏一体でもあるなと思う。間違いないのは、異常気象に長年触れてきた身体的だが、久しぶりに再会する通常気象たるや圧倒的に過ごしやすいのに変わりはないということだ。身体で覚えるというのは、こういうことを指すのだろう。なかなか生得的でないことを、このレベルで身体的に覚えるというのは至難の業だろうが。
その一方で、連日、欧州の異常な暑さの報道が続いている。今夜、雨模様でないこともあり、月が覗く中を散歩しながら、「世界的に俯瞰で捉えたら、どこかに必ず異常気象が現在進行形で展開されているのだろうから、年中異常気象だといえる。それなのに、狭いこの地域での体感上の通常を、殊更に取り上げるのは滑稽でもある」と思った。でも、それだけで終わらず、「対岸から眺めての発言であることは否めないが、もし自身が今、異常な側にあったとしても、『遠くのどこかには通常があるのだから、いつか通常が必ずここにも取り戻せる』と考えることはできる」と思った。
気象と同じく、自然現象としては地震がある。特に今月は、頻繁に大きな地震が起こっている。規模を問わなければ、こうしている間にも、どこかで小規模な地震が起こっていてもおかしくない。前述の構図を当てはめれば、ずっと地震の世界にいることになる。こんなことを書きながら、父親の誕生日を迎えた。雷はともあれ火事はずっと御免こうむりたいものだ。雷は地震と同じく、避けられないものであるのが通常なのだろう。でも、存在感という点では、今は地震の方が圧倒的に大きい。それでも、父親が最後に付いてくる。
レジ袋
いったん帰宅してから立ち寄るというのも癪で、その実、商品が入ったレジ袋を提げたまま入店する恥ずかしさに躊躇しながら、結局帰宅する。そんなことが、これまで少なからずあった。記憶していないものを入れれば無数にあったといえるかもしれない。他店でのレジ袋を持って、堂々と入店する場面がもっと見受けられれば、社会的にはそうでない場合に比べて良い状態といえると考えたこともあった。
最近は、意を決する場合もあるにせよ、そういう気恥ずかしさが顔をのぞかせたら、むしろ積極的に入店するようにしている。もっとも、どういう店からどういう店へと至るのかで、だいぶ敷居は変わってくるが、多くの場合、分母と分子で分母は変わらないといった感じで、分母はスーパーマーケットである。その分子はいえば、比率の多い順から挙げると、喫茶店、別のスーパーマーケットやコンビニ、喫茶店以外の飲食店といった塩梅だ。いずれも、個人商店というより、チェーン店である。
他店帰りに他店のレジ袋を引っ提げて入店するということ自体を目的化すれば、もっと分子はもとより分母のバリエーションを増やすのは容易だろう。でも、そういう方法は取りたくない。言い訳を用意して実行しているのと同じで、俄然つまらないが目に見えているからだ。
こんなこととは別に気付いたことがある。それこそ、ここに書き残したいと思う。それは、認めたくないが、入りにくいという状態を見出すと、鬼の首を獲ったかの如く、「なんで入店しづらいんだ? おかしいじゃないか? 悪いことをしているわけでもないのに!」といった不満を吐き出したい気持ちを充満させているのではないか? ということだ。愚痴りたい気持ちがあり、その契機を見付けて、飛び付いているのではないか? ということだ。こういう気持ちをレジ袋に入れるということが浮かび、この文章を結びそうになったが、そんなことができるとして、何故そうしたいのか? 自省のために、その気持ちを後で眺めるための一時保存というわけか? あるいは、自身への罰則として、商品には罪がないが、その商品が不満の気持ちで汚染され、味や機能が低下するといった効果を与えようとしているからか? いずれも確かめようがない代わりに、いずれも正解ともいえるかと思った。間違いないのは、積極的にレジ袋を貰うことが多く、その理由として、なんだかもらうのが悪いような風潮を勝手ながら感じているからということがある。これも不満という点では前述のケースと同類だろう。
先日に続き今夜、閉店前のスーパーマーケットでモノクロパッケージのスナック菓子を見掛けた。結構売れているのが一瞥して分かった。すぐに話題性からだろうと思った。そして、印刷コストは下がるのかもしれないが、実際には全然省資源としての効力自体は高くないのだろうと想像した。そう思いながらも、矛盾するかのように購入した。帰宅してこれを書きながら、「退店時にレジ袋に手書きで何か書くようにすれば、パッケージのようなものとなるのではないか? これもまたマイバッグとなるのではないか? ここに不満等自分の気持ちを書くことも考えられる」と浮かんだ。中に入っているわけではないが、前述の気持ちがレジ袋の表面にわずかにせよ可視化できると思った。こうしたことは法律によって実施されるというより自然発生的に起こるべきことだと思った。一人ひとりが、自らをレジ袋やマイバックといった入れ物状態とすることが必要なのか? と思った。そうなるとまだ、その実現は道半ばのように思える。なぜなら、どこにも入店していないようでもある一方、当人次第では、あらゆる異なる環境という店舗間において、別の環境という店舗を持ち込み合うことができると思うからだ。