Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

結局、人

 最近でもよく耳にし、否定できないが違和感が残る言葉に、「結局、人」がある。例えば、経営層の取材で、「会社がここまで成長したのは、人財によるもの。これからもそれは変わらない」といった発言がそれだ。先日も、実に魅力的な、大昔は大ワルだったに違いない、今や実に魅力的な表情を見せる70代の役員の方から「いい人財がいかに残ってくれるか。いい人財が残る会社には、いい人財が集まってくる」と伺ったばかりだ。
 言外にも言葉が広がっているかのように、たったこれだけの言葉が、数十枚はおろか数百枚の原稿を余裕で飲み込み含んでいるかのように、圧倒的な事実情報の塊として飛び込んでくる。自ずと共感を覚えることになる。
 それでも、同時に微かに感じた「この方でも、そういう発言にまとめるのだな」といった違和感は、その場を離れると綻びとなって姿を現す。だらしないことに、これまでも、少なくとも10年はゆうに、こうした違和感の綻びを目の当たりにしながら放置してきた。このあたりでまとめようと書き始めた。
 この違和感の正体は何か? 「もっと細分化して欲しいということだろう」と思った。「間違っていないが、それはまとめすぎだろう?」というわけだ。そこには、「誰もが、そう思っているのだから、もっと違う答えをしてほしい」という欲求が現れていると思う。
 「またしても与えてもらいたいのか?!」と辟易しながら思う。そして、この違和感には、与えてもらえなかったことへの不満が関係していると思って、嫌になる。その結果か、「結局、人」という回答は「自分で考えてみたらどうですか?」「私は人だと思うのですが、あなたはどう思いますか?」という問いだったのだと思う。
 この前に、「人財」と書いている。「人材」でも間違っていないし、どちらにしようか迷ったが、人財とした。まさか、人財と人材を重ねて書くわけにもいかない。ここで、はっと気付いた。同音異義語ではないが、シンプルな一言一言にはこうした文字、意味の重ね合わせが伴っているのだろうと。それが、原稿用紙数百枚の文字に起こった上で短い言葉になっているとしたら、シンプルというのは不正確かもしれない。
 前述の方々には及びもしないだろうが、私は例えば、この記事も含む文章の語尾において、「気付いた」「思った」「考えた」「浮かんだ」のいずれを使おうか迷うことがある。いずれも含んでいるのだと思う。ここで迷うことも間違ってはいないだろうだが、こんなところで迷っていないで進めば良いという状態も間違ってはいないだろう。まだ書いていない文字や話していない言葉の多さに圧倒されるが、圧倒されている場合ではない。それら一切合切を引き連れることができるのもできないのも、自分だからだ。

ソーシャルメディア

 日中、久しぶりの路線で客先から戻っていると、スマホを取り出していない男性が気になっていることに気付いた。青年といえるその男性は、私にとって、スマホを車両内で取り出している方が普通で、取り出していないのに違和感を覚えるタイプだった。要は、いかにもスマホを眺めているはずの人が取り出しさえしていないことに驚いた。すぐに「逆はどうだろう? いかにも車両内では折り目正しく座って、スマホとは距離を保っていそうな人がスマホに夢中だった場合には?」と浮かび、その場合には、今回のスマホ的男性よりは驚きそうにないと思った。
 好感度に違いはあった。私には、後者よりも前者の方が好感度の点で上だった。これは、私の中に、これだけ一般化しようが、たとえ、「今更そんなことを気にしているの? もはや気にすることではないだろう?」と呆れた指摘を受けようが、依然、人前でスマホに夢中な姿を曝け出しているのには、嫌な気持ちが走る。列車よりもはるかに早く。
 人前で、同様の、いわばエゴをむき出しにした周囲への注意が、それをしていない時よりも著しく下がっている状態というのには、読書や同じく何らかのデバイスを用いる場合だとPCやiPadといったタブレットを使用している場合がある。ところが、いずれもスマホに対する程の嫌悪は喚起しない。何故だろう?
 暫く悩んだが、社会性を保っている度合いの違いというより、今や大多数が行っている、言い換えれば、一般化されてはいるが望ましいとはいえない行為に属していると思うからだと考えた。恐ろしく偏屈というか、そのくらい見過ごせよと言えなくもない寛容とは言えない態度だと思う。この態度だって、社会性を欠いている気がしてくる。それでも、人前でのスマホに夢中になる姿に懐疑的な気持ちが沸くのは止まらない。
 ともあれ、趨勢か否かという点は、気になる。人前でのPCやiPadもまた一般化したとしたら、嫌悪が沸くのは容易に想像できると思った。但し、読書となると、例えば車両内の全員が自身が手にする本に夢中だったとしても、異様だと思いこそすれ、嫌悪とは一線を画した感情のままな気がした。そして再び、恐ろしく偏屈で、何という偏見だろうと思った。
 いずれにしても、他人の観察といえば、能動的な態度に聞こえるが、刺激を与えてもらおうという点でみれば、受動的な態度に変わり始める。バランスよく、他人を気にして、自分のことだけに集中してを繰り返すことができれば状況は変わるのか? と思った。バランスって、また、難しいキーワードを思い浮かべたものだ。ただ、ここでバランスが良いという場合、決して50/50といった均等な配分ではないだろうという、根拠のない確信ならある。今回のスマホのような一部の趨勢というのにも、この均等に抱くような不自然さを覚えている気がする。もっとも、私もまた、スマホを取り出していることは多く、自分も当事者という事実が、スマホに夢中状態への嫌悪に拍車を掛けている気もする。

 しかし、車両内は面白いと思う。他者への関心が高止まりしていることが多い空間だ。今はこんなことを書いているが、1980年代以前だと考えもしなかった気がする。なんせ、他者への関心を何とか希薄にしてほしいと願っていたぐらいの空間だったと思い出すからだ。例えば、別の記事で書いたかもしれないが、日本の多くの列車のように、進行方向に平行に設置されたシート同士が通路を挟んで向かい合う車両内では、向かい合った他人の視線が気になったり、煩わしく思えたりしていたからだ。小中学生の頃、「ドラマや映画で見る、海外の向き合わない座席になんで変わらないのだろう?」と嘆いたことがあるのを、ぼんやりと思い出した。
 スマホや、それ以前にPCといったデバイスの登場は、そうした意識を回避するには絶好のツールといえるだろう。開発はともかく、普及の要因には、こうした他者への関心を希薄にできるという効果もある気がする。この点、スマホほどPCは分かりにくいかもしれない。例えば、オフィスでPCがあることによって、仕事をしている感がPCがない時よりも醸成されるので、上司等自分以外の社員からの自分に対する意識を低下させることができるといえば、分かりやすいかもしれない。
 時代の中で意識は交互に変化する側面があるのか、天邪鬼ということか、今はもっと他人の意識を気にする時間が必要な気がした。そして、「面白いから」というのを、その理由にしたくなった。他人の意識を気にし合っているのに、以前とは違って、面白い場合が増えている―そんな状況となれば、面白いと思う。何度もこの場所で挙げているが、レジ前もまた、そうした場所に相応しいと思う。つまり、他人は他人でも見知らぬ他人同士が接する度合いが高い場所であるのがポイントで、レジ前は列車の車両内に負けていないだろう。こんな風に考えれば、灯台下暗し的に、まだまだ使用されていないソーシャルメディアな場所があるではないか?! と思った。

横顔

 自動車関連部品について、一日中読み漁っていたら、程なく自動的に父親のことを思い出していた。ファンやマニアという存在がどこか嘘くさく思える位に、私にとっての父親は自動車と程良い距離で、但し、それでも一心同体といった感じで共にあった。単純に、手前味噌だろうが、その関係はかっこいいと今にして思った。
 例のごとく、大切な人との数千日だか1万数千日だかにおよぶ日常の思い出は、ことごとく記憶から消え去っている。その中にあって、父親との記憶で思い出すことができるものには、彼の運転する車中の場合が多い。左の横顔が中心ということだと思って、確かに、真正面からの顔の記憶は少ないなと思った。あるいは、数少ない真正面からの表情は、どういうわけか、車中の場合よりも生気を帯びて感じられるように思った。何があるか分からないものだ。
 いずれも捏造した記憶ではなく、「確かにあの時には真正面に対峙していたな」と思えるものだが、肝心の表情はどうもはっきり覚えていない。はっきりしているのは、真正面だったことだけだ。そういう意味では、今、頭の中に浮かんでいる表情についてだけは、捏造といえば捏造かもしれない。それでも、生成AIの提示する表情とは似ても似つかない実の表情だと思う。その時に現れた実際の表情でなくとも実の。こういう表情が得られるのは、生きてきての役得であり、試練だと思う。記憶をはじめ、自分の身体と、父親が自動車との間に築いたような関係を自身が築いているかといえば、まだまだ心許ない。この身体の運転者はこの先も普通に考えれば私しかいないはずなので、自動運転というわけにはいかない。うまくやっていきたいものだ。
 父親が、タイヤや車のハンドルのブレをチェックする目的で、帰宅時、見慣れた路上で大きく左右にハンドルを切ったことがある。車は派手に左右に傾きながら前進した。私はもう10歳を十分越えていたはずだが、びっくりしながら横を見ると、真剣過ぎず、リラックスもし過ぎていない感じの表情があった。十分な表現ではないが、やっぱりかっこいいのだと今は思う。うまく言いたいのに、うまく言えないことがある。運転をうまくなりたい人の気持ちが分かる気がする。うまく表現したいことがあると思うからだ。それは、口先での巧みな表現や流麗な文章表現ということだけでは、十分に実現はなされないはずだ。自動車関連部品に感謝したい。自動車関連部品のおかげで、今までよりも父親の姿を広範囲に眺めることができた気がする。左側の横顔や、想像上の真正面の表情だとしても、意図せず、父親の周囲を眺め回すように、私自身は走ったのかもしれない。今気付いたが、どんな角度でも横顔だともいえる。もっと別の顔、表情を見たいからだ。

不便とふきん

 アナログという言い方は安易で、大雑把で、好きでないことが多い。それでも、アナログではあろうことに触れると、その出来事自体は好きな場合が少なくない。いい加減疲労も溜まってきたのか、在宅勤務に切り替えた今日、気分転換に夕闇の中をホームセンターに出向いた。縁起が悪い気がするが、日中、湯気の影響を長期間受けたせいか、キッチンのふきん掛けが、ふきんごと落下した。新しいふきん掛けと、ふきんを購入した。
 駐輪場で自転車を解錠していると、防犯登録のシールに目が向かった。この約1年の間にも何度か気にすることがあったが、東海地方から現在の住居に引っ越した際、防犯登録の廃止手続きをしないままだった。引っ越し後に、電話やメールといった手段で、廃止手続きはできないことを知った。それっきり、まだ東海地方を訪れていないこともあり、今でも以前の登録のままとなっている。
 この直接訪問が伴うという制約に際し、最初こそ、「不便だな」とは思ったものの、気付けばいつしか、「これだけ隙間なく、便利にならなければならない、便利にしなければならない、便利で当然のような空気が流れまくっているのに、こうした不便があからさまに残っているのってなんかいい」と思うようになっていた。これを書きながら、既に思ったことだが、前述のふきん掛けの落下も同じように考えられる気がした。不便や、ましてや不幸が、総じて、このような好感を喚起するとは到底思えないが、「なんかいい:なんか悪い」という二項対立を、いずれかに収斂するとすれば、左辺側にしたいのは間違いない。もう一つ、付け加えるなら、RCの「ぼくはタオル」「俺は電気」ではないが、俺はふきん、あるいは、俺はふきん掛けと思うくらいでちょうどいいと思ったということだ。せっかく落下することがあるなら、自分も含めた誰かの参考になる方がいい。

ハラスメント

 「カスタマーハラスメントをカスハラではなくカラスと略すようになると、事態はより深刻な状態になっているといえるか?」ー帰宅直後、目に留まったカスタマーハラスメントの文字に即反応して、そんな問いが浮かんだ。それに答えないまま、「それにしても、ハラスメントの種類は現時点でも多過ぎの印象を拭えない。こちらがハラハラするくらいには多い。一方、生まれてからこのかた、商品としてのスルメの種類は多いとは思えない。物事を噛んで味わう時間が増えれば、あるいは、16ビートではないが、熟考という意味で、一秒間あたりの咀嚼する回数が増えれば、素敵な社会に近付くのではないか?」と思った。

 考えてみれば、あらゆる所作がハラスメントの因子を備えているともいえる。およそ、どんな所作だろうと、ハラスメントだと思う側が存在し得るからだ。これは何ハラかは分からないが、とりあえず寝不足であり、眠い。自分で自分に与えている状況、言い換えれば、所作というより状態=be動詞の下にある時にも、ハラスメントは起こっている。そんな中で、頭の中では例えば、「上司はまだ残業している。上司とは、一挙一動はもとより、髪の毛一本単位でハラスメントな存在をいう」といった悪態を思い付いたとしたら、ハラスメントの中に別のハラスメントがあることになる。「複数のハラスメントをカリフォルニアロールのように巻いて、誰か食べてくれ!」ーこの思い付きもまたハラスメントというならハラスメントだということはできる。ハラスメントの森。メメントモリ? もう寝なきゃ無理。

ホッチキス

 日帰り出張と書いて、「もっと別の言い方はないものか、何か不格好だな」と思ったが、とにかく、今日は日帰り出張だ。今年初めてとなる夏のスーツを着ようと取り出した。いつもの通り、クリーニング店のホッチキスを伴ったタグが付いている。いつものように、「なんだかな」と思う。
 価格を抑えている以上、大量に処理をするためには、仕方がないことなのだろう。変に、最新のチップ等が搭載でコスト高となるよりは現実的なのだろう。そう考えれば、今になって人間の知恵の結果がこのタグだと好感を覚えなくもない。でも、クリーニング店という八百屋に似ているともいえる存在は、もっと大量の処理とは別の状態であってほしいというわがままも消えない。
 そんなことを思いながら、ホッチキスを外す。昔は指先を怪我したこともあったかもしれない。ケガをしなくても、この外す瞬間が一番この着用時に覚える嫌な瞬間なのは変わらない。この場所の別の記事で、クリアファイル≒先延ばしと書いたことがあったと思うが、このホッチキスにもまた同様の気持ちが垣間見える。クリアファイル同様、ホッチキスには何の罪もない。
 ホッチキスを付けたままでも、燃えるごみは受け付けるらしいことをだいぶ前に知った。でも、紙とホッチキスの鉄に分かれるのなら、紙は資源ごみへ、鉄は金属ごみへと分けるのが定着している。この際にも、釈然としない思いが漂う。こうしたはっきりした区分とはならないものが、月に何度か現れるのに思い当たるからだ。その代表的なものが、歯ブラシのプラケースを紙で封じているパッケージだ。紙を剝がした際、どうしても紙がプラケース部に残って、これまたいつものように、「なんだかな」と思う。
 ここまで新幹線の中で書いていて、「新幹線内のごみこそ、大雑把な区分ではないか?!」と気付いた。まともに区分しなくても、結局何とでもなるような気がしてくる。同時に、こうした区分に捕らわれている気持ちこそ、分離すべきではないのか? とも思い始めるが、物理的なものに限らなければ、概念等、分離していない状態として認識しているものがあるからこそ、捨てずに保っている気持ちなり、精神なりがあるのではないか? ここまでを行きの新幹線での記録とする。帰りは何を思うのか?
 かくして約10時間後の帰路の車中にて、続きを書き始める。続きになるかどうかの前に、とにかく疲れた。初めてお会いする方々による、初めてとは思えない熱のこもった話、そこに含まれる感情をはじめとした情報の圧倒的な質量を受けたら、当たり前だという気持ちもある。この「疲れた」は、大抵の未完成な文章に付与できる気がする。これもまた先延ばししたい気持ちを心の底から発しているようで多用したくはないが、気持ちをまさにぶちまけたいというのがぴったりな今には相応しい。早く帰宅して湯船に浸かりたいという欲求も湧いてくる。ホッチキスに見えないホッチキスを、ばちばちあちこちに留めているような気がしてくる。
 行きでは、「保っている」という表現を使った。帰りの今は、「保つと保留するを、はっきりと区分すべきだ。両者はまるで違う」と思うので精一杯だ。でも、一つ前進としておこう。

挨拶と現実

 土日は、昼過ぎまで眠り込まねばならないかのように眠り込んでいた。前週も前々週もそうだった。そして、これで何度目かというこの場所の二日飛ばしを、またやってしまった。「もう二度と繰り返さない」と思う。「なるべく空けない」とは、まだしないでおく。申し訳ないと自分に思う。思えば、この「もう二度と」で何度も喫煙をしたが、二年目には禁煙となり、来月でもう15年になろうとしている。もう二度と、だ。BUCK-TICKの「In H250601eaven」という歌は、心中を扱ったものだが、最後に「もう二度とーっ!」と叫ばれる。自分との心中は、自己否定よりも強烈で悲惨で、そんなものは絶対避けたいと思った。
 金曜日、知り合ってから6年半程になる古参の嘱託社員の方と、夕方すれ違った。彼は専ら訝しげに私を見ることが多く、これまでろくに会話を交わしたこともなかったし、私から挨拶しても、ろくに返事を返してくれることがなかった。それが、向こうから軽くではあったが、会釈をしてくれた。それ以上に、初めて年齢相応に見える弱弱しい表情に驚いた。業界の大ベテランだが、ばりばりの現役ということもあってか、本来なら実際の年齢より余裕で15歳以上は若く見える。数時間後に知ったが、この日が彼の最終出勤日だった。
 最後の邂逅といえば矛盾した表現だが、出会いから最後の邂逅までを振り返ってみて、この方はずっと私に挨拶をしてくれていたのだと思った。挨拶とは、単なる身体的な動作ではないとすれば。よく楽器に関して、音を出していない時も音という説明がなされるが、それに似ているかもしれない。そう考えると、多くの挨拶がなっていないとされるような場面も、挨拶をしていることになると思った。
 もう一つ、この挨拶をしたかしていないかといった認識の違いは、夢と現実という関係にも似ていると思った。それは、昨日の寝起きに考えたことと関係している。いずれも、明確な境界を、人間である私が勝手に設けているだけで、本当はいずれか一方に帰属しているのではないか? という想像だ。そうなると、夢ではなく現実に帰属していてほしいという思いが湧いてくるのだが。ともかく、象徴的な出来事が昨日の寝起きの際にあったのは間違いない。目覚める寸前の夢の中で、私は見知らぬ男から詰問されて、請求し忘れた請求書がないか確認をしていた。その時、宅配のインターホンが鳴った。夢の中の男が「誰か来たね。いいよ、先に出て」と言って目を開けると夢も終わった。そして、本当に宅配は来ていた。
 「睡眠時の夢というのは現実の一部なんだ」と呟いて、当たり前だと思った。今は、逆に「現実というのは夢の一部なんだ」と思わないのが自分らしいと思う。この現実は、もっと大きな現実の一部と思う気持ちがある。もっと大きな夢にこの現実という小さな夢が含まれていると考えるには、あまりに悲しいことや寂しいことがあり過ぎる。それなのに、夢がなくならないというのはおかしいと思うのだ。
 前述の挨拶もまた、挨拶しないというのは挨拶の一部だというわけだ。逆だと、悲し過ぎるし、寂し過ぎるではないか。「さよならは別れの言葉じゃなくて」という歌があったが、先にとっくにまとめられていたようで悔しい。仮に夢だとしても、挨拶など存在しない世界だとしても、新たな表現に向かわなくてはと思う。