Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。

2015年。始まると始めると並ぶ。

冬は嫌いなはずだが元旦なら好きなのかもしれないことには、だいぶ以前から気が付いている。なぜ?と考えて、すぐに思い当たることの一つに、多くのお店が閉まっていることがある。なるほど、暦の上ではさあ始まるぞかもしれないが、いったん活動を止めてみるという姿勢に、より始まるや始めるを内包している状態を見ているのかもしれない。これが大晦日だとさあ休むぞとか言いながら、身体や気持ちはむしろ激しく動いている空気に満ち溢れていて好きじゃないので、やっぱり始まるや始めるの前の凪のような状態が好きなのだろう。言うなれば、前向きでさえ私には饒舌で、そこに至るほんの手前の思いが満ちている状態が好きなのだろう。時間という数量的には1日だけど思いだとか気持ちという単位では1未満にも思えるような1日が好きなのだろう。

凪といえば、右クリックですぐにGoogle検索→Wikipediaの記事に着地という行動パターンは相変わらず昨年のままだ。そのまま記事「凪」を眺めるとむしろ心がざわつき始めた。ご覧の通り、あまりにも短い記事だからだ。いわばこれだって私の中では1未満ということだと、WEBページを含む各テキストにも元旦があるのではないかと思った。1文字でも句点が付いていても、それは何かに並んだ文字列、行列であり、これからも後続のものに並ばれる存在だ。なるほど、きっちり1単位で並ぶことばかりじゃ不自然だしつまらないので、そう思わせる空気を好きになれるわけがない。あるいは、1同士より1未満 (や、それがあるというのなら1以上)と1が接した方が強度は高いのではないかと思う。低いものを加えた方が全体としては強いというのは何だか信じられる。

ところで私は、先に「始まる」と「始める」の両方を並列的に記述している。再びなぜ?と考えて、やっぱりここでも新年早々偉人の、橘川幸夫氏の言葉が答えを導き始める。いや、始まるでもある。その答えはここでは書かない。こういう風に記述すれば、始まるし、始めるとも思うからだ。

さて、元旦といえばお正月、お正月といえば歌留多が当たり前な時代があった。この歌留多も考えてみれば、物としても並んでいるばかりではなく正しいものが並ぶことでゲームが成立するものだ。この頃はすっかり歌留多をやらなくなったばかりか見かけなくもなった。何かに似ているなと思ったら、これは別にお正月に限ったことではないが、しりとりがあった。こちらは物がない分、よりソフト的というか何だかITっぽいなとも思う。ともかく、続けることにしよう。そう、続けるということがこのゲームの上がり方なのだと咄嗟に思う。すぐに、生き続けることが上がることだと言い換えたくなってくるが続けよう。上がるということがゲームの終了のみを意味するのであれば、撥音「ん」がその鍵を握っているのはご存じの通りだが、私は「ん」を口にした人や耳にした人の気持ちの上では、ゲームはまだ終了していないと考えてきた。というのは私はたまたま数年前、何とはなしに語感につられたのだろう、「デーモーーーーーーンッ!」と友人のあだ名を叫んだ際、はっと気が付いたことがあったからだ。その後にも「そばーーーっ!と叫ぶより、うどーーーんっ!と叫ぶ方が怒っているように見える」とtweetをしていたりもするのだが、「ん」は往々にして気持ちの上では促音「っ」が「並んでいる」ことも多く、それは一種の興奮状態であり、とても終わりを認めるような状態ではないはずだと瞬時に思ったのだ。

ここで対照的に、日本語英語化した名詞で末尾がNで終わるものの方が、よほど日本語の「ん」より、ゲームの終了を認めているのではないかと思う。つまり、コミュニケーション(communication)やナビゲーション(navigation)といったそれらは、communicativeやnavigateに比べて、カタカナ表記のものをそのままの意味として受け入れている、分かった気になっているのではないか。意味に対する思考停止の度合が強いという点で、上がっているように思えたのだ。

この辺で再び元旦に戻ろう。元旦でも休まないものに自販機がある。ここに「始まる」や「始める」をどのように見出すのかはさておき、昨年末に続きこの元旦も「『冷え知らず』さんの生姜チキンスープ」等を飲んだ。この自販機というのは面白いもので、証明するのもさておきだが、誰かが買おうとしていたり買っていたりすると、その後にまるで磁石に引き寄せられる鉄のように、誰かが近付いて並ぼうとするようにも映る。数年前からそのような光景を見てきた気がする。「並ぶ」は、「始まる」と「始める」に比べると視覚的には区別が付かないが、単複同形のように「並ぶ」と「並ぶ」の違いがあるのだと思う。

続いて飲み干した缶を捨て住宅街に入る。同じく飲み干したものだが捨てられずに残っているものが並んでいる。水の入った猫除けのペットボトル達だ。これらの方が野良猫っぽくもあるが、ご存じの方も多い通り、猫には効果が無いらしい。彼らが平気でその先にある玄関へと歩いている様はいつ見てもおかしい。並べている本人もきっと効果がないと分かっている場合も多いはずなのにそれでも並んでいるのを見ると、並べているつもりが並んでいるのなら何に対して並ぶのかを考えてみようかと思い始める。そして自動詞と他動詞の相撲を勝手に始めそうになる。

こんなことを考えるにつけ、何らかのかたちで常に並び続けているこの世界は狭くないものだなと思う。ついでにいえば、猫の額も狭いものではない。私の好きな縞模様の猫の額には大体アルファベットのMが書かれているが、ごくたまにWを見かけることもある。そして、こうしている間にもMayがWillに変わったり、WillがMayに変わったりする世界にあらゆるものが並ぶ。