続きをどのように探り当てる?
気付けば、続きを書こうと意識することに、好感や納得感に似た気持ちを覚えて数日を過ごしている。今日は帰り際、「では、その続きをどのように探り当てる?」と自問していた。悪くない問いだと今も思う。きっかけは何気なく眺めたスマホの画面だった。数時間しか経っていないが、その内容はまるで思い出せない。でも、その表示内容から、「こうして眺めて、それにコメントを返すように何かを考えて、あるいは考えたつもりになって、そこからスペースシャトルの分離のように、探そうという意識が解き放たれる、そんな要は受け身な動きばかりをしているんじゃないか?」と思った。
極端と言えば極端に寄り過ぎているかもしれない。思い浮かぶことは止められず、思い浮かんだ時点で「考えている」状態にある場合もあるとしたら尚更、寒い日に乾布摩擦をするがごとく考えを止めないで次々と考えを意識してみる、そんな対抗策を考えてみた。これは、自分の頭の中に今ある、考えようとしている考えの中身を意識するという、ちょっとややこしい状態だとでも説明できる。
もう一つ、問いの重要さを思った。もっとも、これは前述の問いの内容というより、問いを立てる行為自体のことだ。問いは、偏りを完全ではないが正す方向に向かわせる気がする。この完全ではない、という半自動ともいえる状態がまた悪くないと思い、本当にそうであって欲しいと思う。どうも、受動や能動のことばかりにこだわっているようだ。そもそも、受動が悪くて能動が正しいという思いがどうしても居座っているように映る。