受動態を通して見る能動態あるいはその逆あるいはその混同体のようなもの
今日の午後、絵に書いたような強風が絵に書いたように灰色の雲を動かしている中を歩いていた。横を通過する自動車ならいつも通りだったのだろうが、サイレント映画のように音数が減った感じが続いてやってきた。鳩らしき鳥の群れが、眼前で一つの生き物のように編隊というよりももっと本人達以外の意思で形作られたかのような形を保って旋回していった。美しいと思って、陳腐な感想だと思った。でも美しいと思った。切なかった。これを美しいと思うのは別に私だけに限ったことではなかろうが、それは結局人間の感受性の勝手な働きだといえなくもない。それでも、そういう錯覚なり確信なり生得的な感覚なりを持ち得たことを誇りに思う。
続いて、こうした感想をスマートフォンに記述し掛けて、途中で記述を止めてみようと思った。本当に自身が心に刻むがごとく強く感じ強く思ったことであれば、記録せずとも再生されるはずと思ったのだ。そして、これは能動的なようでいて、書かされるという意味合いも強く見出して、受動的であると思った。いつも近接した言葉の影響を受けてしまう。勝手に近接した言葉の風に舞い上がろうとする。今回は、さっきの鳥の群れの旋回をその風に見立てていた。言葉もまた、自分の意思とは別に、書かされる時があるのだと思ったのだ。
今、何を思うのか?酒に手を伸ばそうと思えばすぐに伸ばすことができる凪のような停滞を設けながら。それは、続きを書くことの有効性だ。そこからの続きだったり、今続きだと思って書いていることに実はまだ違う続きがあるのに忘れているのではないか?と疑ったりすることだ。ぐらぐらとみっともない飛行をしているかもしれない。でも、その姿は失笑だけを誘うものでもないはずと思いたい。