沖縄を投票
死を思えば、自分以外の人や生き物、事物に、大抵は優しくなれるはずだろう。そう浮かんだ位、優しくない出来事が溢れている。こう書いてみて、「そんなに溢れているなら、逆にそんなことを今更思い浮かべないだろう。では、何故浮かんだ?」と思う。自分が優しい状態になっていて、周囲がそうではないと思うからか? 直近では、若手社員が、往年の、労働時間を誇っている態度宛らの発言をしたのがきっかけだったかもしれない。空気が加虐的に感じたのだ。本来、弱い立場の存在が見せる攻撃性に、悲観的というより、怯んだ気がする。
「弱い存在だというなら、それ位見逃せよ。気にしていることの方が加虐的ではないか!」―そういう自分も現れる。一体、何を書こうとしているのか? これはいつも重要だが、今回は尚更重要なことにしたくなる。単なる嘆きにしたくないからだ。死を挙げておいて、嘆く結びとするのは、何も間違っていないけれど、それならむしろ、間違えたいのだ。「死は嘆くだけのものじゃない」と、自分だけは認めたくなる。もっとも、皆、そう問われて、否定する人は少ないだろうが。
沖縄から戻り、多忙で身体的に参っていたということを言い訳に、二日どころか先週ずっとこの場所を空けてしまった。どこを旅していたのだろうか、問うのなら、この場所に記録せねばと性懲りもなく戻ってきた。舌の根が乾かないうちに不在にしてしまっても、ここは大切な場所なのだ。
死を忘れ続けている状態の方が長いのだとして、そういう時間の中で訪れた沖縄は、ごく何ミクロンの空気しか味わっていないとしても、勝手に、自動的に死を喚起した。死が、大騒ぎはしないまでも、やや元気に、普通に歩き回っていた感じを、振り返ると思い起こす。次回、この感覚はどう変化するのか? と思う。同じだとしても、それは変化だと思う。力まず、別に能動的というわけでも、流されているというわけでもなく、自然と時間に乗り続ける、サーファーというより、サーフボードの上で目を開けながらも寝そべっている、擬人としての沖縄を想起できるからだ。
今の住居に越してきてから初めて投票権を行使できる選挙の投票日となった今日、人工的な、気味の悪いコントラストを思い浮かべた。昨夜、何気なく「誰も投票に行かないということが一度はあってもいい。あの素晴らしい投票率0%をもう一度」と浮かび、Facebookにポストしていた。この短文自体、「誰も投票に行かないことが『まだない/かつてあった』」という矛盾したコントラストを持っているが、これが自然に思えるくらいには不自然に人工的なものを、選挙には感じる。
その違和感は、もう5年以上続いているコロナにも通じるものだ。それは、民間と行政という、何とも分かりやすいコントラストで、大部分を説明できると気付いた。それは、民間は、明るい広報や宣伝役を担うように、身近な言葉遣いや態度で接種や投票を呼びかけ、それを受け止める接種会場や投票会場は、一転して、堅めな仰々しい雰囲気を醸し出した、昭和を矮小化したようなアナログな対応で、手続きの完了を促そうとこちらを見続けているというものだ。ほぼ無意識的にこの構図を動詞として表現しようとして、「死を製造している」に収斂しそうになる。壮大な仕掛けだと。
沖縄で体感した死の空気に、改めて感謝を覚える。私の中で、前述の人工的な死とコントラストを成しているからだ。沖縄と書いて投票したくなっている。沖縄を揶揄していると思われるのは心外なので、そうしないまでも、やはり、私は投票に向かうのだろう。消去法的に投票するのだろう。せめて、違う投票場所を見つけるか増やすかしないと、納得がいかない。明日以降、強がる若手社員に会ったら、「沖縄良かった」と斜め上と捉えられる独り言のような、その実、疑問形を投げかけてみようと思う。それは、もしかしたら、将来的に眺めれば、投票に匹敵するものにできるかもしれない。
白のタクシー
二度と会わない人のなんと多いことか。でも、もしかしたら、それは大きな勘違いや錯覚を孕んでいるのかもしれない。霊だとか言霊だとか、ともかく肉体は伴っていないが存在している、かつて肉体を伴っていた主体者、そうした主体者もまたこの場、この時に存在していて、自分達と関わり合っているのだとしたら、二度と会わないままとなっている人の数も大きく変化、減少しそうだと思ったのだ。
今朝は二、三時間の睡眠ながらも意を決して起き、チェックアウトの準備をしながら、昨日の続き、昨日目の当たりにした嘉手納基地から考えて、この場を始めようと思っていた。チェックアウト後、コインロッカーに荷物を預け、今月初めに申し込んでいた那覇空港のとある見学コースに参加した。それもまた、昨日の基地と併せた航空という分野を通して、人間を考えるには十分な時間だった。一期一会を意識する参加者と引率者の別れを経て、昼過ぎとなった。この時点で既に、昨日だけでも、今朝からだけでも膨大な情報を抱えてはいたが、また、昨日のようにバスを中心とした移動とはなるが、そんなに留まってはいられなかった。昨日訪問を考え、間に合わなかったひめゆりの塔に向かうからだ。
昨日程は目当ての便を逃さず、うまく乗り継ぎ、ひめゆりの塔と資料館を訪れた。正義の中に悪が、悪の中に正義がと交互に真反対のはずの生きる姿勢が垣間見えた気がした。それは、冒頭に記した二度と会わない人の多さと少なさという二項対立と似ている気がする。物理的に出会っていても、会ってすらいない状態は遍在し、出会うと会わないの対立状態として点滅しながら、時間の中に浮かんでいると思うからだ。
今回、ここでは、嘉手納基地とともに多くは触れないでおきたい。それは、自分の言語能力のせいでもあり、自分の意志でもある。すぐに言葉にしないことで浮かび上がるものを見つけて言葉にできるか、試したい対象に思えるのだ。
代わりに、ひめゆりの塔を出てすぐの出来事を書き残したい。ここで代わりとしたのは、十分に嘉手納基地やひめゆりの塔が放ってきた霊や言霊ならびに、それらと自分との間に否が応でも発生しようとする点滅に匹敵するような光であり闇だと思ったからだ。ただ、すぐに書き残したくなった。具体的に触れたばかりの人だからだろうか?
ひめゆりの塔の資料館を後にして、バス乗り場に立っていたら、高齢のタクシー運転手の男性に声を掛けられた。結果的に私は、この男性のタクシーに乗って、荷物を格納したコインロッカーがある小禄駅までの30分あまりを過ごすことになるのだが、それはまさに沖縄に猛烈に留まりたくなる時間と空間に変わった。降りて程なく、このことは今日書き残そうと思った。くどいが、すぐに言葉にするからといって、先の二つの場所での時間の方が上位にあるわけではない。
男性は、「バスを待って移動していたら時間が掛かるから」と、通常より千円程度低い金額でいいから乗らないか? という旨、私に尋ねた。白タクシーによる売り込みといえば売り込みなのだが、どこか心を許させる雰囲気があった。決して器用ではない感じの。カードは使えず現金のみということで、現金の持ち合わせがなく、コンビニはどこか尋ねると、「そこまで歩くことはない。乗って下さい」と、この男性との時間が始まった。
歩いていたら、三十分は要したであろうコンビニのATMで現金を引き出し、自分用にアイスコーヒーと、男性用に冷えた緑茶を買った。「お金を遣わないでいいのに」と言いながら、男性は発進した。三十分程の乗車時間のうち、男性が発した言葉は、おそらく5分にも満たない、饒舌なわけではない語り口調だったが、発進して数分の後に通り掛かった林や崖に、沖縄は洞窟が多いが、二つの並んだ洞窟のうち、亡くなったはずの洞窟ではなく、その隣の洞窟から遺骨が発見されたこと、人間の記憶は曖昧だが、当人は調査の継続を終える決断を下したこと、その後に現れた建設現場に、これから地中をもっと掘れば、まだ遺骨は出てきても不思議ではないこと、古めかしいが、巨大なアパートが建っている場所の下に、何千人だかの遺体が眠っていたこと、沖縄で亡くなった人の数や、戦後の政府の対応を時系列に沿って教えてくれた。
決して饒舌ではなく、朴訥な感じでぼそりぼそりと話すのに、具体的な数値がふんだんに入っていた。また、私の返答にまともに反応しないこともあったが、私と会話、あるいは対話を、等身大のまま、対等な立場で試みてくれていると思った。気付けば、乗車して10分位の内には、乗って良かったというより、なんて有難い時間だと思うようになっていた。
時間は20代以降の時間のように、あるいは戦後のようにあっという間に過ぎ、男性は「あれが小禄ですよ」と私に告げた。行きのバスに乗車した場所であり、イオンという目印もあったので、初めて訪れた沖縄の初めて降りた駅ということであっても、「ええ。分かります」と、気の利かない返答をしてしまった。タクシーが止まり、会計を済ませると、ほんの少しの間だけ斜め後ろの私と男性の目が合った。「ありがとうございました」と言う男性に、「お気を付けて。ありがとうございました。また」と、告げて降りた。嬉しかったが、懐かしさの混じったような寂しさが残った。
タクシーから降りて、走り去るタクシーを目で追いながら歩き始めた途端、「あの人は、別に幽霊ではないが、あの人には、そうした霊の類が乗っていて、あの人の意識と同居しながら、私と関わってくれたのだ」と悟った。思い浮かんだというより、言葉通りの意味で悟った。堪らない気持ちになる。でも、降りなければ、乗ることができない。今、機内にてそう思った。悪の中にも、正義の中にも乗り降りする必要があると思った。また、会いたい。この気持ちを、自分が直接的に再会という形で具体化できなくても、誰かに利用してもらいたい。これに関しては、費用は掛からない。そして、乗り放題だ。沖縄、来て良かった。馬鹿だが、一つ賢くなった。
オキニャワ
「情報量が多い」と自分で発する場合、「共有する」「~し続ける」という物言いと同じ位、怠惰な意味で卑怯に映る。それでも、二日目の沖縄は、ミクロン単位での沖縄の一部でしかないとしても、圧倒されるはずの情報量を、暑さにも存外慣れ、紫外線以上に浴び続けた一日だった。ホテルのトイレで初めて、赤くなった腕に気付いた。途中、時々吹き付ける心地良い風にも気付き、「意外と涼しいこともあるのだな!」と新鮮で嬉しい気持ちになっていた。同じく、バスの中で見かけた「ヒーター注意」に、「寒い場合もあるのか」と思った。
交通手段が、レンタカー以外には電車、バスだが、選択肢は決して多くなく、一本乗り間違えると想像以上に、次の便を待たねばならなかったり、別の選択肢を探す必要があるのを身を持って経験した。バスの乗り場が道を隔てて両側にあるのは、どこに行っても大抵同じだろうが、移動の初っ端、どちらが目的地への乗り場かが、見たところ表示がなく、分からなかった。ゆいレールの駅員の人に、「バスのことで申し訳ないですが」と尋ね、教えてもらうも、実は逆だったりした。
その人が悪いのでは決してなく、バスの近くにいた住民らしき人に尋ねるなり、スマホで軽く検索するのではなく、もっと徹底的に調べるなりしなかった私が悪いのに過ぎない。それでも、にわか雨よりもにわかなくせに、にわか雨よりも早く、いらいらし始めているのに気付いて嫌になった。でも、今日は何故か苦手な上司のことが浮かび、「なるほどな」と思うに至った。上司は、癖の強い顧客の担当者の態度を、不安の裏返しであり、揚げ足を取ろうと思えば即取ることにつながるような、よく細部をチェックしている点を、仕事に真剣なことの裏返しと評価していた。その態度が浮かんだのだ。「物事を否定的に捉えない」という、よく聞く言葉は噓臭く思えて苦手だったが、急に晴れたかのように、それを受け入れた気がした。
とにもかくにも、そうするうちに、刻々と時間は過ぎ、予定を変更せざるを得なくなった。当初、嘉手納基地が見える道の駅かでなに向かうはずだったが、朝は予定しなかった首里城に向かった。首里駅のそばにあるレンタルサイクルに跨り、迷わずに到着した。城に近付くべく坂を上り始めて、「他の城に似ているな」と思った。城はどこもある程度似てもおかしくないはずだろうから、凡庸な連想といえばそうだろう。とても重厚な、熱風でも太刀打ちできないような人間の情念が重なり合った歴史がここにもあるのは間違いないが、それをすいすいと眺めているのに気付き、立ち止まり、それでも「じっくりと見ていたら時間がない」などと失礼なことも思い浮かべながら、再びすいすいと眺めて歩いていた。その途中、「そもそも何故城を設けるのだろう?」と思って、幼少時、私がとにかく「何故? 何故?」ばかりだったと、亡くなった従姉が言っていたのを、久しぶりに思い出した。
探求心や疑いの心を持っているという点で、評価を得そうな発言にも見えるが、教えて教えての他力本願にも見える。でも今回は、「『何故?』も繰り返すことで、別の『何故?』に変化させ続ければ、他力本願は脱することができるはずだ」と思った。これは、最近考えていた「問いに問いで返答するのは批判を受けることも多いが、優れた場合もままあるのではないか?」という仮説に、確信を与えることになった。
さて、ここまで書いて、冒頭の「~続ける」を既に使っていることに気付く。今回はさほど嫌な類ではないことにも。二日目の沖縄に感謝しつつ、続きは明日とする。その前に、これだけは書き残さねばということがあったので添えておく。それは、今日の情報量を、もしかしたら、簡単に凝縮し得るように思える光景のことだ。
首里城記念公園を出て、駐輪場に来たら、野良猫が気持ち良さそうに木々に近い駐輪場のセメントの地面の上で眠っていた。実に気持ち良さそうだったし、木々同様に自然の一部に見えたし、それ以前に猫が好きだしで、スマホを取り出して近付いたら、その左手に高齢の男性がカメラを持って猫の方向を向いていた。「このおじさんも猫を撮るのか?」と思ったが、すぐに、猫の向こうの木々を撮影しようとしている、おそらくは環境関連の調査関係者だろうと考えを改めた。その男性は、確かに猫の向こうを真剣に見つめていた。なんだか、この三者だけでも、奇跡的な組み合わせで、でもどこか滑稽でもある抱きしめたい光景だと思った。スマホで撮影する間、猫は見向きもしなかったが、私が声を掛けた瞬間、目を開け、ずっとこちらを睨んでいた。私は解錠した自転車を押しながら何度か振り返ったが、ずっと視線は合ったままだった。男性の姿はいつしか見えなくなっていた。躊躇したが、自転車に跨って道路に出た。
六月の沖縄
多忙、「身体が眠れと警告してきた」といったことを言い訳に、またまたまたまた×これで何回目だ? 空けてしまった。初めて訪れることになる、沖縄への機内でこれを書き始めた。
沖縄は気になりながらも後ろめたさを感じて行かないままだった。幼少時から、戦時中の話に目と耳を塞ぎ、写真や映像から目を逸らしてきた。上陸という文字が、残酷で汚らわしい文字に映った。軽々しく現地を踏まない方が、自分にとって何か幸運なことが訪れるだろうという独善的な価値観めいたものを安易に生成し、それにすがっていた。結局が逃避だ。
その気持ちに変化が起こった頃、コロナが始まった。その頃はまだ、コロナは特に老人には致命的なものだと思い込んでいた。すぐにそれを理由に、「自分がコロナに罹っていて無自覚なまま上陸したら、老人が多いという沖縄で殺人者になってしまう。行くべきではない」という都合のいい理由が、容易く自動的に出来上がっていた。これこそ、無自覚な状態だった。別に存在する本当の行きにくさから顔を背けるための、逃げるための理由が強化されて幸いといわんばかりだったと、今は思う。
その後、新型コロナワクチンで親友を亡くした際も、その翌年、大切な従姉を失った時も、いずれもその骨を見たくなくて、途中で離脱した。沖縄を避けるのもこれと似た心理だろう。「自分可愛さという言葉は、戦後の日本の歴史を象徴する」といったもっともらしい言い分を披露する前に、もっとも自分を表す説明だと認めねばならない。恥ずかしく情けないことだが、でも、そこから始めねばならない。これまでも、認めてきたつもりだったが、今のところ続いている断酒同様、失敗しても何度も継続しなければならないと思う。もっとも、最初から継続を前提にするのではなく。
那覇空港への到着まで1時間を切った頃、ふと窓外を眺めた。一瞬で、自分の選択が正しいと分かった。この理屈はよく分からない。でも、書き残したい。何もないような海面と空が、「悲しみや不幸や痛みはもちろん存在するが、明るさは絶えていないのだ」とでも呟いている声が、どこからともなく聞こえてきそうな光景に思えた。
空港に到着して、その印象はますます正しいと思った。皆私と同じで、どこにでもいる日本人なのだろうが、身に付けている印象という衣服は、明るいものに映った。迷いながら空港を出た途端、その湿度と温度の混合に、「キンチョウの夏、日本の夏」という言葉が頭の中を流れた。昔の、幼い頃の自分が知っている真夏の放熱の真っ最中の空間に似ている気がした。同時に、香港やグアム、上海の屋外を思い出した。明らかに、九州とは違って、日本的な度合いが低いといえる環境の中に、先程挙げた通行人はもとより、洋服の青山をはじめ、日本的そのものの事物が並んでいるのが、どこか可笑しく、新鮮だった。そして、戦中の日本のアジア侵攻を想像して、「日本とはまるで異なる環境に、日本的なものを配置する。それ自体に、快感を覚えるものがあったのではないか? また、表現は躊躇されるが、侵攻に、どこか旅行的な気軽さがあったのではないか?」と思った。気軽としたのは、心的な新鮮さから来る感動を移動という簡単な行為で、ある程度実現できるからと考えたからだ。
空港からホテルへと向かう。ゆいレールというモノレールで移動しながら、「空港から鉄道で移動する皆が皆、このゆいレールのみを使わざるを得ない。皆に与えられた、あるいは皆が持っている選択肢のうち、実行可能な選択肢というのは、決して多くない。でも、これが普通なのか?」と思った。なんだか、ゆいレールを嫌に思っているようだが、まるで逆で、ゆいレールは実に可愛らしく愛おしく思える列車だった。何度か乗ったフランクフルト空港からのモノレールにかなり外観が似ていると思った。モノレールだから当然かもしれないが。この場所の別の記事で書いた世界の旗の類似度を再び思い出した。いい意味で選択肢やパターンが少ないということは、国や文化に限らず、異なる環境の者同士が分かり合える気がして、窮屈なようでもあり、風通しが良くて気持ち良い感じでもあるように思えた。ゆいレールから見下ろした先に、操車場なのか、数台の列車が停まっていた。泊まっていたと書いた方が正確でもある。これまた、フランクフルト空港からSバーンで市内に向かう時に見下ろした操車場の光景に似ていた。好きな動物、猫が眠っているようでもあり、無機質というものは、実はそんなに多くない気もしてくる。
結局、だらしのない人間だということだろう。あまり見たくはない観光ガイドに触れないまでも、自分なりに沖縄についての歴史観をもっとはっきりと用意してから来るべきだったはずが、数年前に買った岡本太郎による沖縄論もろくに読まず、バッグに入れて到着した始末だ。ろくに知らないということを再訪の理由にするには都合がいいというものだが、仮にそうした歴史観を持っていて、今頃ますます辛くなっていたとしても、再訪したくなっていることだろうと思いたい。もう既に、再訪したくなっているからだ。
どこまで自分に甘いのだと思う。昔、大学時代の知人に沖縄出身の男がいた。彼は「沖縄のチョコレートはとにかく甘い。チョコ以外にも甘いものが一杯」と言っていたのを、そのチョコレートとともに思い出した。自分のことを甘いと認めて、それで止まる代わりに、そういうチョコレートの甘さを見習おうと思う。
BUCK-TICKに「六月の沖縄」という素晴らしい歌がある。実にこの雰囲気を体現していると思う。まだ、成田空港でパンと、ホテルの売店で島ナッツを食べただけだ。断酒もふた月を過ぎたばかりで要注意だが、別に酒がなくとも、沖縄そばを食べたくなった。出掛けることにする。赤嶺駅は徒歩数分で助かる。青森駅は雪の中みたいな物言いに思った。そういえば、ホテルの近くにある焼肉店の店先に、仙台牛をアピールする文字が並んでいた。「欲求に任せれば、人は簡単に異なる文化を混ぜ合わすことができるのだとしたら、欲求の種類や範囲を広げたい」と思った。なだらかなアスファルトの坂道が、ますますグアムを彷彿させる。通り過ぎる車の群れも。会いたい人の顔が、ドア越しの運転席に見えるような錯覚を得た。断酒も、自分をしばき上げることも、当面まだまだ続く。
3時の数多
日中、調べもので古いニュース記事を閲覧していた。今回も程なく、モノクロや色褪せた60-70年代の写真に、古くからの感情が再来した。「堪らない」「ときめく」といった喜びの類だ。でも今日はどういうわけか、「そもそも何でこうなるのだろう?」と気になった。
もう25年以上、テレビをリアルタイムで視聴する時間が年間1時間未満を切っているが、小学生の頃は一日のうち、ゆうに4、5時間は視聴していた。時折、特集されたり再放送となる昔の、とりわけ自身の生後間もない頃や生まれる数年前といった記憶にないテレビ番組には、釘付けになっていた。このような時から振り返って思い浮かんだ、「夢中になった理由」を列記してみる。
- 祖母や父、叔父、叔母、従兄、従姉といった身内と共通の話題ができると思い、それを欲していた。
- 自分の一部であるかのような、自分と関連度の高い時代の記録だと潜在的に察知し、身体的に反応していた。
- その魅力とは生得的なものかどうかは分からないが、単純に魅力的に映った。
- 何かのきっかけで魅力を覚えてから、一種の刷り込みとして、同類に対して魅力的に思う認識が形成された。
複合的な理由だと思えるので、いずれも否定できない。とはいえ、2番目の「身体的に反応」というのが、「異質だが、最も主因を占めているのではないか?」と、根拠を見つけていないままにそう思う。どんな根拠があるとしても、時間と場所といった外的な要素と自分との関連度がある程度の範囲で身近というのが、鍵を握ってそうに思える。関連度が高いだけだと、自宅の近所を映し出した昨夜や今朝のニュース映像といったごく関連度の高いものに、前述の喜びの感情を抱くことになる。それは、あまり実感が湧いてこない。
とはいえ、近所という場所の身近さは無視できないようで、近所は古い町であったこともあり、浮世絵に描かれている場所がある。その浮世絵を目の当たりにしてから、当時の光景を現在の現地に重ねようとすることが増え、いつしか、その時間を、心地良く新鮮に感じるようになっている。少なくとも200年以上前になるので、時間的な身近さは希薄なのだが。
こんなことを考えていると、「多くを知ることは、多くに対する関心を増やすことにつながり、関心を好感に変換する契機となるだろう」と思った。当たり前のことを、自分の言葉として新たに獲得していく日々が続く。そういう日々よ、続けと思う。そういう命令形なら、見ず知らずの人に願ってもいいだろう? と思う。命令形にも祈りがあるのだな。またしても、当たり前のことを自分の言葉として実体化した。眠る。
サクラ
昨夜、小雨が降っていた。梅雨なのか、もはや自信を持てない時代を生きていると思う。大切な人を亡くし続ける時間を生きている。これは否定したいが、間違いない。言い換えるなら、ここで、殺され続けると書こうとして、躊躇いなんとか留まる時代を生きている。
櫻井敦司が好きだ。これからはもっと好きになるのか。多分そうなのだろう。その程度に思っておいた方がいいと思う。小雨だと思っていたら大雨になるのは困るが、大好きだと思っていたら、好きだと思い込んだまま、実際はそういう気持ちには欠ける部分が多いとなるのはもっと困るのだ。
櫻井敦司が亡くなってから、もうすぐ2年が来ようとしている。旅に出ているようだが、それは思い込もうとすればそう思えるという感じで、やはり亡くなったのだと認めざるを得ない。当然ながらメンバーと共にいたわけでもないが、メディアやライブで触れる超断片的な情報、空気からだけでも、それを知覚する。ここで何を書いても、そうした超断片からの情報に依拠したものだが、私の心の中に依拠したものも間違いなくあり、それが花開くかもしれない。花開かせるべきかもしれない。花開かせたいのは間違いない。だから、書いてみる。
彼のことは、もともと、嫌いではないが、苦手な意識を持っていた。比較ではなく、メンバーの今井寿が好きだった。今でも好きだ。自由の種類を増やしてくれたかのような今井寿に魅せられていた。作品の中でも、彼の詞曲のものを専ら好んで聴いていた時期も長くあった。
櫻井敦司の不可解さと共に、恐れ多い面はあるが、自分に似た部分を感じて、覚悟を持てなかったのだと今にして思う。のめり込む勇気がなかったのだと思う。もちろん、複合的な理由で、単純に理解力が人生経験や思考能力の点で追い付いていなかったのも関係しているだろう。
一昨日、今井寿でしかない原曲とは異なるアレンジと歌唱と演奏で披露された「キラメキの中で」。目の当たりにして、すぐさま、激しい血の雨が流れるが美しいとでも形容できそうな、それでいて微かな静寂も湛えた、熱くも極寒でもある、櫻井敦司というより、生気を帯びた櫻井敦司の言葉達が迫ってきて、包まれてしまった。今井寿による極めてオリジナルな表現なのに、今井寿は櫻井敦司の言葉の媒介になっていた。櫻井敦司が意図したのだろうか? 隠れていた言葉の全貌が現れた気がした。今、気付いたが、「煌めきではなく、だから、キラメキなのか」と腑に落ちた。この場合、言葉の広がりが、言葉として未だ増殖中の形態が、カタカナだったのだと思ったのだ。
最後の「黄昏のハウリング」を始める前に、今井寿は、「3,000年後の地で会おう。必ずだ」と告げた。本気でそう告げているのだと分かった。可笑しなもので、本当に昨夜、帰り道で「BUCK-TICKというと一過性の煌めき、閃光のようだが、全くそうでないのが、ユーモラスだし、美しい」と思った。この状態に、人間を重ねたくなる。サクラと同じように。
暇というより群馬の間について
6年ぶりに高崎を訪れた。出口を間違え、ヤマダ電機のある側に来た。「山田うどんなら、何杯売ればこんなビルが建つのか?」と要らぬ疑問が浮かび、「案外、儲かるのが、うどんかもしれない」と思った。
今年2回目となるBUCK-TICKのライブに、群馬音楽センターに向かった。東京とは異なり、彼らの地元ということもあってか、大規模なのだろうけど、どこか隙間を感じる、都市ではない雰囲気があった。
ライブは、前回5月に体験した流れと似ていた。でも、幾つかの大きな違いがあった。そもそも新鮮だった。違いの一つのうち、今回は個人的なものを挙げてみる。それは、昔思い浮かんだ仮説を、再び思い浮かべたことだ。前回は、そうはならなかった。それは、自分が与える反応が微々たるものだと感じるような大集団の中でも、自分が行動すれば、反応の開始や活性化がより体感できるというものだ。具体的な一例としては、「アンコール!」の掛け声がある。
「アンコール! アンコール!」と手拍子混じりに発し続けるのは、昔は今より当たり前の光景だった気がする。というのも、周囲を見れば、ライブは十二分に楽しんでいるものの、それとこれとは別と言わんばかりに、着席し前を向いているだけの人が何人もいるようになっているからだ。今日も、そうだった。
そんな中、私はいつものように、意図せず「アンコール!」を発していた。数分待たず、「この感じ、自分が大きく状況を左右するはずという自論のあれだな? 私が手を抜いたら、周囲はもっと声を出さなくなり、手を叩かなくなるだろう」と思い浮かび、若干声を高め、メンバーが登場するまで続けた。
結論から言うと、今回は、如実に反応は感じられなかった。多少、周囲の声が、私の声の高まりに反応して高くなった気がした程度のものだった。
「行列に並んでいる人の後ろに、並びたくなる心理や、最初の一人にはなりたがらないが、誰かがやっていたら、実行しやすくなる心理と何が違うのか?」-そういう指摘もすぐに思い浮かぶ。間違ってはいないだろう。ただ、今回の自説のポイントは、「自分が手を抜くとその出来事の規模や力は弱まる、場合によっては始まらない」という自分が世界の変化に関与する度合いの高さにある。この点で、やはり、自説は否定せずに生き残ることになった。
奇しくも帰り道、この自説を確認する機会が早々に訪れたからだ。歩道で、赤信号が表示された時、2、3人はそのまま、車の気配がない赤信号を渡っていった。私は再び普段通り意図せず立ち止まりながら、「あ、この状況は反応を確認するのに分かりやすいかも?」と思った。予想通りだった。私が止まってみると、後ろに続く何十人かのうち、すぐ後ろの4、5人だけでも、ぴたっと止まった。全く車の気配はないままだったので、別に渡ったところで問題はないし、別に道徳的な意識で止まるべきだとも言いたくない。ただ単純に、この反応が心地良かった。帰宅時の車両内にて、ここまで書いた。続きはまた、明日にしようかと思う。