Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

正誤を超えた言説の延長

 昨日知り合った方から聞いた話だ。「名古屋は喫茶文化の街」とはよく言われ、もはや常識と化した感もあるが、その誕生のきっかけについてだった。その方曰く、「製造現場が今よりも数多く集まっていた昔の名古屋では、その騒音から、現場より外での打ち合わせをという流れになり、『ちょっと喫茶店で打ち合わせましょうか』となった。そのため、喫茶店が様々なサービスを提供するようになった」ということだった。
 なるほどと思った。その内容もさることながら、「それは知らなかった!」ともう一人、私と一緒に聞いていた名古屋に詳しい知人も賛同していたのが、面白かった。実際の要因は、もっと複合的なのかもしれないが、正しい正しくないよりも、こういう言説を提示してくれたのが、楽しく思えた。
 翌日になって、こういう正誤を問わないが、夢中になる、注目してしまう言説というのは、いざ自分がその語り手になれるか? となれば、なかなか難しく、これまで意図してできたものではなかったと確認していた。私も、何を言ったのかは忘れたが、そうした聴衆者の反応を得るような言説を提示したことがあったのだ。
 今、二つのことを思う。一つは、今回の場合は、ほんわかとしたいい話の類にまとめることができるが、幻想という点では、扇動の類だって同じだろうということだ。もう一つは、自分が語り手になる方が、自分の考える力を衰えさせない、あるいは自分の考える力に生気を与えるという意味で、自分にとって良いということだ。こうなると、小説の類をどうしても思い浮かべることになる。そういう言説を持った小説なら、確かに書きたいと思う。
 昨日は、この場所でも書いた「小説は多いが、批評は少ない」について、その知り合った方に私は挙げていた。新鮮な表情を伴った賛同を得た。もしかしたら、私も同じような言説を提示したということかもしれない。でも、こういう場合、語り手は、会話に走り過ぎないことが大切だと思う。もっと、一人でその言説を延長した方が、更なる別の言説を見出す気がしていいと思う。世界は、想像という机上だろうが、狭くないはずだからだ。一つの正誤を超えた文脈の中に、別の出来事が見出せると思うからだ。そうした出来事の一つ一つは、「細かいディテールは置いておいて」といった、嫌悪されるような類ではないはずだ。言説の延長という点でも、小説は良い形式だと思った。