路線
誕生日、数人としか会話を交わさなかった。15時前に安ホテルで目覚めた。目覚ましをセットしていないとはいえ、前日3時間程度の睡眠だったからか16時間程、眠っていた。前日からの雨が強まっているのが、カーテンを開ける前に分かった。程なく、翌日まで山陽本線の運行状況を気にすることになった。
一番最初に会話を交わしたのは、その山陽線大竹駅の駅員さんとだった。改札をくぐるとすぐに、「運転を見合わせております。再開の目処は立っていません」のアナウンスがあり、駅員さんと「再開の見込みは?」「分からないです。多分、これから雨足は強まるはずなので、今日は無理だと思います」といったやり取りをした。その時も思ったが、こうして眺めても、より主観を提示してくれていて、昨今公の立場からの発言にはこうした主観がないと感じる分、新鮮だし、有難い。
それにしても、前述の通り、運行状況のみを気にして、災害の可能性にまで気が回っていないのがありありと分かる。広島ということで、原爆に思いを馳せる一方で、現在の原爆的なものには意識が向かっていない。全く、自愛の路線ならどこまでも伸びている。延びているでは? と上っ面の表記を挙げて自問し、思考停止からの再開なら、後回しへと延びていると自答する。認めるところから、始めるしかない。また再確認したのだと思いたい。
当日も思ったことで、書き残したいことは、他にもある。それはまた表記を挙げるようだが、この「一番最初」というものだ。再び、この場所の他の、何なら前回の記事と同じことを書くことになるだろう。でも、それだけ頭の中を占めているのだろうから、かまわず続けてみる。
とにかく、「一番最初」だとか、「好き嫌い」だとか、類似点や相違点だとか、書き始める、書き進めるのに、揚力となるような、つまり、書きやすい視点を利用しがちなことが気になったのだ。このこと自体、書きやすい問いという視点なのかもしれないが。でも、そう思えば、「だからこそ、書きにくい場所へと向かわなければならない」という、「何故、難しいことから逃げないで考えないといけないのか?」という、これ自体普段考えることから逃げがちな問いに対する回答を意図せず見出した気がして、嬉しくもある。
書きやすいことから始めたとしても、それを書き進めることで、やがて難しい選択が登場すると思う。登場しないなら、それは書き進めていないからだと思う。そして、その難しい選択を通過するなら、その文脈は自分にとって生きたものになると思う。鉄道にこじつけるようだが、まさにこの選択は駅で、この文脈は路線というものだ。
また、路線は一つではない。あるいは、一つだが、止まりながらも走っているというような矛盾した状態が、思考の路線では今のところ唯一可能だ。これらのことは当たり前の話だが、これまで私は、走るか止まるかで捉えがちだった。大雨や、原爆という脅威を持ち出し、止まるのは、別の文脈、路線での役割と考えることにした。この止まらない路線というのは、人生そのものの動き方ではないかと思う。当たり前だとしても。
不思議なことに、目的地の一つであった、欲求を口にすることが少ない祖母が「行ってみたい」と何度か口にしていた宮島も、広島市内の銭湯も、原爆ドームや原爆資料館も訪れないまま、大竹市で、他人から見れば幽閉されたように、されど本人からすれば実にのびのびゆっくりと過ごしたが、体感上は、何だか多くの行動を成し得ているような、充実した感覚だった。駅以外の会話は、喫茶店やお好み焼き店での、注文と会計時の会話ぐらいしかなかった。それでも、先週の土曜日の夕方、2時間程度、うたた寝をして目覚めた時の多幸感にも通じる感覚だった。そのうたた寝から目覚めた時は、驚く程、新鮮な多幸感だったのだ。
翌日再開した山陽線で広島港へと移動した。そして、気付けば、松山にてもう二日が経っている。15時前、まだ外出せず。それでも、充実した路線上を走っている感覚はある。そろそろ実際に、外出することにする。
重ねる
昨夜何となくギターを弾いていたら、曲めいたものができた。ギターの雰囲気がStonesの「地の塩」に似ているなと思った。他人事のようだが、実際、意図していないはずなのに浮かんだのだと、こういう表現が妥当というものだ。すらすら出てきた「狂っているのは 君の方じゃなく 乾いた呼吸を求める この世界」という言葉を重ねて、弾き語りながら、スマホで録音した。今日聴き直したが、悪くない。
ともかく、丑三つ時までそんなことをしていたので、今朝は出発の準備のために起きねばならない時間ぎりぎりまで眠ってしまい、大慌てで身支度を済ませた。朝一番のバスで空港に向かうべく、急いでいると、もう10数時間を経た今では思い出せないが、昨夜のよりもはるかにいいと実感したメロディーが鼻歌の形で浮かんでいるのに気付いた。こんな時こそ、すぐにスマホで録れば良かったのだが、バスを待つ人混みの視線を意識して後回しにしたら、案の定忘れてしまった。
でも、まあいいかと思うことになった。というのも、考えるべき問題が浮かんだからだ。それは、何を根拠に、頭の中に浮かんだものを「いい」だとか「前のよりいい」と位置付けているのだろう? という問いだ。「感覚的なものに決まっている」というのでは、回答になっていないと思うので、その先へと考えてみた。
すると、回答から逸脱して、「感覚的なままで、その浮かんだものを展開すれば良いのに、その感覚に、今回の場合だとコード進行の理屈(コード理論に当てはまっている場合だけでなく、コード理論に当てはまっていない、だから良いという考え方も含む)を紐付けようとしているのに気付いた。要は、既存の価値観の借用というわけだが、そんなことを言ったら、言語を使用していること自体が当てはまるので、ここでは、その借用の度合いこそが問題だと考え直した。
暫し考えて、「考えることが楽だったのか否か?」が重要だと思った。私的にもあまりに多用しがちな言葉だが、思考停止の度合いが高いと楽だという場合が多いだろう。ちゃんと考え抜こうとしているかどうか? というわけだ。ここまで書いて、感覚に任せていても、考え抜くことはできるのだと気付いた。考えるというのは、決して理屈を確認しながらというわけではないと。当たり前でも、新鮮な発見だ。
2時間未満のフライトで、広島空港に到着した。広島駅まで、今度は1時間程度のバスに乗り込んだ。駅が近付いてきた到着数十分前になると、それまでの森林の風景が、住宅地のそれに変わり始めた。それを一瞥して、中肉中背の市民集団がこちらを見ているような光景が迫ってきた。すぐに、「東京とそれ以外」という言葉が続いて浮かんでいた。ありきたりな言葉なのに、生気を帯びた言葉に思えた。言い換えれば、「抜きん出た集中度とそれ以外」だとも思った。何の自慢にもならないし、むしろ嫌気が差していることがバイアスになりかねないのでフラットに眺めたいと思うのだが、日常の大半の時間を、高層ビル群を目の当たりにした時間が占めている、その影響がこんなにも露骨に表れるのか? とも思った。
駅まで後数分となった頃、運転手とバス会社の担当者が業務用の連絡をしている様子が、無線の音声と車内からの肉声のやり取りとして、聞こえてきた。見事なまでの広島弁交じりのやり取りで、渋滞を回避するためにルートを変更することが決定されていた。それに続けて、標準語での車内アナウンスが、まもなく広島であることを告げた。私は、可笑しくなると同時に、「広島弁だろうが、標準語だろうが、その中に、別の言葉を聞き出すかどうかの方が重要ではないか?!」と、問いであり確信を思い浮かべていた。
その問いと確信は、すぐに増幅され強化されることになった。バスを降り、4月に訪れた時から見ても様変わりした広島駅の周辺をぶらぶら歩いていると、「被爆国であるのだから、原爆が落とされた日は祝日にして懺悔すべきだ」という主張が書かれた貼り紙が目に入った。反射的に、その意見に賛同し、反射的というよりも自動的に涙が浮かび掛けているのに気付き、同じことを思ったのだ。「これもまた、思考停止であり、借用の度合いが高いのではないか?! この中にある別の言葉を見るとすれば、それがむしろ自分の本心に近いのではないか?!」と。自動的としたのは、涙を流すことで贖罪にあずかろうという汚い意識がどこかにあるはずだと思ったからだ。反射的よりも、より意識的という意味で使い分けたくなった。
明日は誕生日だ。他人には大切だと言っている、無二だと言っている友人が亡くなってから、もう2年と3カ月になろうとしている。まだ、涙が溢れるということにはなっていない。でも、今日は、今までよりも、この泣いていない状態を肯定できる気になった。自動的に涙が落ちないようになっているとは思わない。反射的に涙が落ちるのは、何も悪いことではないが、そうである必要はないと思う。思考停止と考えからの逃避の連続の中にあるのは間違いないが、友人について、交わした言葉の中にある言葉を聞こうとしているのだと思うからか、前述の肯定の思いは強くなる。今回、贖罪とは思っていない。
歳を取る、もとい、年を重ねるというのは、良いものだろう。そうであってほしいと思う。この場合の取るは、重ねると比べると、随分、自動的に映る。重ねるは、重ねた本人が、再び、その重なりの中にある、重ねなければ、楽に見つけることができたものを、それでも見つけることに意味を見出しながら、見つけようとしている光景も思い浮かぶので、いい言葉だと思った。職業的な環境もあってか、若い時分から比べると、進んだはずの近眼も、この数カ月のうちに明らかに、以前なら認識できなかった遠くにある文字の幾つかが可読できる場合が増えている。それはそれで有難いこととして引き続き、別の言葉を見聞きするように、年齢を重ねたい。ちょうどお盆に、再び複数のお墓参りに訪れるつもりだ。明るい気持ちになってきた。
ずれ
目先のことに捕らわれてしまいがちということか、はたまた、人は大きな目標の前に、ある程度その目標を充足する結果が手に入ると、元の大きな目標を目指さなくなるということか(それと、この半月以上ものこの場所の放置は別問題だ)、ともかく、この二つを思い起こすことが最近あった。それは、後者の何かを得るというのとは一見程遠いものだ。
電車で車内アナウンスが、乗客が原因による遅延を声高らかに謝罪していた。「ご気分が悪いお客様がいらっしゃったため、この電車は約3分程度遅れて、〇〇駅に到着します。電車が遅れ、『まことに申し訳ございません』」―。このアナウンスは慇懃に映る通り、本当に申し訳ないと思っているわけではないのは明らかだろう。そればかりか、声高らかにとした通り、『』の箇所は日々の鬱憤を爆発させるように、自分が悪くないからこそ、「謝ってやっているんだ! こういう大変な業務なんだ!」といったニュアンスを感じ取る、語気を強めていると感じるものだった。私の精神状態も反映しているとは思うが、ともかく、手放しで聞き流せるものではなかった。ここぞとばかり、自己主張できる瞬間を得た魚。自己の献身、あるいは被害者たる自分をアピールできる瞬間を得た魚。魚には悪いが、そんな言葉も浮かぶ。「犠牲になってやっている」と。
この出来事にすぐに関連付けて思い出すものに、タバコやドラッグストアでの土産物に関してかつて感じたことがある。前者は、タバコ自体は数十年前と比べると、倍以上に価格が上がったとはいえ一箱600円前後で、1本単位で眺めれば30円前後となるが、その1本を数本乞うていると、「自分で買ってきなよ」といった非難を受けることはあっても、「いいよ、もうこの箱丸ごとあげるよ」とはなりにくいというものだ。例外はあるだろうが、どうも、嫌がる人の方が多い気がする。
後者も同様に、個単位で捉えれば、決して高価ではないが、海外旅行中に土産を選んでいる際、「ドラッグストアに寄らなくていいの? ドラッグストアでのお土産はいいの?」と気にされることだ。まるで、この機会を逃したら、後がないと言わんばかりの雰囲気で。これは、前述のタバコと比べると当てはまらない人も多いだろうが、その場合でも、ちょっとした、現地では日常的に利用されている小売店での「せっかく現地に来ていて、購入するチャンスなのに、ばら撒き型の土産を買わないの?!」と背中を押されている場合を想像してもらえれば、伝わるのではないだろうか?
必要以上に、特定の行為や事物に価値を持たせるということがあるのは間違いないだろう。前述の行為や事物がこれに当てはまるのなら、そこにあるのはどういう心理だろう? と考える。
ここまで書いて、二週間近く放置して読み返した。またしても、前述の心理についても、「他力本願が底辺にあるのではないか?」と思うに至った。こうなると、袋小路にまた行き当たった気になる。でも、他力と書いて思い浮かぶことならある。それは、「他力本願だらけな世界というものには、一方で、自立を強制する世界でもあるのではないか?」ということだ。「他人にはちゃんとして欲しい」と、ひと言で言い表した方が伝わるだろう。このひと言が絵空事には思えないどころか、至極普通の既知のことを挙げただけという気になる。他責に偏っているかと思いきや、むしろ自責の嵐だという気がするという自身の感覚も同様だ。要するに、互いに思いやる世界では、まだまだ残念ながら、ないということだと思ってしまう。
放棄や離反、あるいは、ずれについて書いていると分かる。「ずれからは、ずれることがない」という面白くないことが浮かぶが、かまわず続ける。価値のずれをなくすこと、あるいは、正しく価値を定めるということは、決して簡単なことではないだろうと思う。その価値とは、ある程度幅があって解釈の自由度があるものだとしても。生死に関わることでも、ずれが存外多いことを想像し、そう思う。
ずれといえば、先週、久しぶりに訪れた名古屋で、蝉時雨がプログレの一歩手前のような音を奏でていた。大合唱といえば大合唱だ。別の記事で書こうと思ったのだが、この記事で記すことにした。「蝉にはおそらくずれも何もないのでは?」と思って、「本当にそうか?」と逡巡したからだ。蝉にしか分からないことだとは思うが、セミの意識だとか知覚をシミュレートする、セミレートとまた脱線しそうになりながらも、とにかく、そういう知覚を得る環境が構築できそうな気もしてくる。
再び、ここで数日間中断していた。一昨日、最近月に数回の頻度で訪れている米軍基地近くの温泉で、初めて、寝転んで湯を楽しむ寝湯なるものを試した。それ自体は、暮れていく時間帯と雲のない空も影響してか、「仮に都会のど真ん中であったとしても、喧騒を忘れさせる」と形容しそうになる魅力に満ちていたが、その前に、私は頭上の天井の木目に引き付けられていた。これまでも何度か思い出すことはあったが、小中学生時分、実家で寝転んで天井を見上げていた時、「今から目を瞑って、開けたら50歳代になっている。案外、あっという間だったなと思うということがあったら怖いな。でも、そんなことは、自分が歳を取る以上、この精神年齢や感情を維持できないのだろうから、無理だろうな」と妄想に耽ることがしばしばあった。それを思い出したのだ。
10年だか20年だか、ともかく結構な年齢になってから、この妄想を思い出し、実際に試したことはあったはずだが、当然か、一瞬で小中学生の自分の意識に戻って、その時点の自分の意識とつながり、あっという間の経年を感じるといった事態には至らなかった。でも、恐ろしいことに今回は、PCのパーテーションのごとく、大昔の自分の意識と現在の意識が併存しており、それがごく一瞬だけつながって、タイムリープに成功したような気がした。ずれであると同時に、ずれでない完全な一致のような瞬間。
生き続けることの面白さ、可笑しさを見た気がした。「残酷さだろう?」と突っ込む自分も現れるが、「天井に、天井なしの可能性を見たのだから、可笑しいだろう?」と言い返しておきたくなった。これも、ずれと言えば、ずれだろう。ずれのある世界は、天井のない世界。天井のある世界は、天井のない世界。
期日前投票
隣にいたMacbookを開けている男性が、通り掛かった赤子連れの若い女性に声を掛けられ、続いて自身の妻子と見られる二人と合流した。開けた駅前にある安いチェーンのカフェのオープン席での光景。「オープンと言いながら、案外開けていないような気もしてくる」と書いてみて可笑しくなるが、大真面目に書き残したいことがあり、久方ぶりに再開した。毎日空けずにと言いながら、この体たらくである。激務や自身の気持ちを理由にするには曖昧過ぎる。それは、ここで触れないが、ちゃんと考察しようと思う。
駅前と書いたが、本当に、駅の改札が大通りを挟んで目の前にある場所だった。また、周囲に様々なチェーンのカフェもある。特定の属性に偏る店舗ではなかったが、それだけ子育てをしている若い世代が少なくなったということだろうか? だからこそ、顔見知りというコミュニティーが生まれやすいのか? と思った。
その理由は定かではないが、続ける。私はそこで、おもむろに選挙公報を広げて読んでいた。「全員が一度選挙に行かないことがあるといいのに」とか「選挙に行っても何も変わらない。今度こそ投票に行かない。その代わり、別のことを考える」とか考えているのに、結局、安心を得たいのだろう。他力本願の情けない自身の姿を、鏡などなくても見てしまう。そうしている間に、前述の場面となった。
顔見知りの挨拶の後、3歳位の子供と一緒に合流した夫婦らしき男女は、総じて子供に、子供語とまではいかないが、どこか作っていると感じさせる言葉で、語りかけるように、優しく質問していた。それを見た瞬間、幼少時にも、一貫して厳しい口調だった父親を思い出した。続いて、その当時に出会った近所の人達や教師のことも。父親に対しては特にだが、私をちゃんと子供として扱ってくれていたのだと思った。子供だからといって過剰な庇護の下に置かず、対岸からものを言わないでいてくれたと思った。それを、「一人の人間としてちゃんと扱ってくれている状態」というのは、教科書的なので避けたいが、今日目の当たりにした人間関係よりは距離が近かったのだと思う。今日の彼らが悪いというわけではない。ただ、父親たちや、あの当時と総称してしまっているのを否定しないまま、それらの方に惹かれる。
今日接した彼らには悪いが、私自身も含め、表面的に、対外的に、物柔らかな、優しい雰囲気を醸し出そうとしていることが多いと感じる。その一方で、冷淡さを全面にしている場合も少なくないだろう。いずれにしても、そこに格納されている動力源は、自分へのご褒美の懇願といった自愛の精神であるように映る。これは、もちろん昔からあるものだが、体重と同じく増減しながら、時代は進むということかもしれない。
時代を切り開くと言われる投票に出向いた。期日前投票だ。会場となった公会堂の前では、はっきりつまらなそうに見える表情の初老の女性がバスを待っていた。私は何だかその存在に安堵を覚えながら、投票へと建物に入った。
エレベーターに間に合うと、中ではまたしても、記録したいと思う幼児と母親らしき女性の会話が始まった。開いたままのエレベーターのドアを、ボタンを押して閉めるように言われた幼児が「何で? 自動で閉まらないの?」と尋ねると、女性は「閉まるけど、早く閉めたいでしょ?」と答えた。幼児は「ふーん」といった完全には納得していない感じだったが、すぐに2階に到着すると今度は、ドアが開く前に「開」ボタンを何度か押下していた。無邪気でもあり、恐ろしい場面でもあると思った。
恐ろしいといえば、このシステムもまた恐ろしいことに変わりはないだろう。投票用紙を受け取り、前に進む。投票用紙の記入台の上で、再び選挙公報を広げて、一夜漬けにも満たない確認を行いながら、レジ前程ではないが、勝手に一人で焦っている自分を押さえ、考えたつもりながらも記憶に残らないような投票を済ませた。
再び建物の外に出ると、初老の女性の姿はもう見えなかった。代わりに、90年代によくすれ違ったような風体の学生風の男性が、私の横を通り過ぎ、気怠そうながらもしっかりとした足取りで建物の中に入っていった。その時は、印象に残っただけだったが、何となく、今日の自分は絵を描くように光景を眺め、絵を描き、絵同士をつなげているなと思った。これを書きながら、投票したい対象や投票できる場所は沢山あるものだなと思った。どちらも、ありきたりだ。政策を批判したり、似通っていると思うのも自由だが、もっと自分の考えを見つめ、進めないとかっこ悪いと思った。
農道なき街で能天気な能動?
流されて、もう何日この場所を空けたかもすぐには浮かばなくなってきた。まずい。多くを語るより短く考えを、自分の中でまとめねば、対策にするならないと思う。
こういう態度が起こすダメージとして、ここを空けることでの自己嫌悪というのは、決して小さい塊ではないが氷山の一角だと思う。どんなに否定しようが、せかせかとした急ぎ足で、良くできた、使い勝手の良い、言いなりという意味での小市民的暮らしぶり、仕事ぶりで過ごしているのだろう。あろうことか、日中、ネックストラップのケースに入れていた名刺と緊急連絡先カードを、いつの間にか落としていることに気付いた。慌てて、通った道をひとしきり探すも見つからずだった。財布を無くすことなら少なからずあったが、多くは、酔っぱらって寝込んでいる際に盗まれたものだったので、今回の場合とは事情は異なる。そんな酔い方をする日々も嫌なものだが、いつの間にか自分の分身、他人の分身を落としているというのはもっと嫌な類だ。
こうなると、自動的、徹底的に自己嫌悪になるのかと思いきや、そうではなかった。これを記録したくなった。まず、恐怖が襲ってきたのだ。「誰かが、悪用して、個人データを買い取るような先にこの名刺の情報を売り渡したとする。私の会社に電話してきて、それが質の悪い営業電話だったりすると、私の生活は会社内で少なからず疑問視されることだろう。そうなると、会社に大変居辛くなる」―。こんなことを連鎖的に思い浮かべて、「家の鍵やスマホを紛失したら、劇的に一日が変化してしまうように、名刺や個人情報のデータを失くすのも、同じかそれ以上の悪い変化を起こしてしまうな」と、こう書くと他人事のようだが、追認していた。そればかりか、これを元に、本格的な小説を書くべきではないか? とすら考えていた。
結果的に、数時間を隔てないうちに、その考えは消えた。他人の不幸といった周囲の関心を惹きやすい、ある具体的な出来事を元に、直接的に考えを展開するのは、それこそ、落ちている→拾う→もしかしたら何らかの自分にとっての得があるかもしれないから落とし主には返さず持っておく、あるいは即金銭に変わるものなら変える、というエゴイスティックな行動と同じだと思ったのだ。
書きたいものは、もっと、直接的な目的から逸れ続けるようなことであって欲しいと、これは自動的に浮かんでいた。それどころじゃないだろう、現実を見よという自分の声が聞こえる一方で、この「目的を持ちたくない、でも、それ自体を能動的に目指さない」、つまり、「目的を持たないことを目的化したくない」という、どこまでも他人事のような姿勢を認める自分に気付いて、嬉しくなった。それは、純粋な能動というものかもしれないと思った。明日早いので、朝、また同じ通り道を歩いてみようと思う。
並行
当たり前に、この場所を空け続けるようになっている。やり方ならまだまだあるという点で言い訳だが、記録までに吐露すると、久しぶりに、いわゆる業務というものが、逃げ出したくなる程度の忙しさになっている。もっとも、こんなものは本人の体感や思い込みなわけで、依然客観的とは言い難いのだが、客観的なものなら、ガンダーラのごとく遠くにありそうだと思い、続けてみる。
これまで、暇というわけではなかった。また、忙しくても、むしろそれを励みにしたり、自身の生活にとって好循環を生み出すリズムに感じたりして、逃げ出したいとは考えなかった。「逃げ出したいと思ったことは、以前あったか?」と問いが浮かび、記憶を辿ってみる。それ程時間を要さず、15年前、18年前頃の業務が思い浮かぶ。共通しているのは、業務に対する自分の圧倒的な力不足と、それでもなお努力するのを厭う、本気になれない状態の両方があったということだ。
「うまく力を発揮したい。でも、努力する気にはならない」とまでは極言したくないが、実質、そうなっているのと変わらないだろう。何故こんな状態になるのか?―考えるべき問いが現れた気がする。書き始めて良かったと思う。
暫し考えて、「その日暮らし」の態度が続いていたからだと思った。これもまた、一寸先は闇である中で生きている以上、「その日暮らしでない人間がどこにいるのか?」と問うことはできるが、そうだとしても気持ちの上でのその日暮らしがあると思うのだ。それは、結果的に今日亡くなるとしても、一日の始まりに明日やその先を考えて、一日の計画を立てる―誰がというわけではなく、多くの名も知らぬ人が続けているであろう態度を喚起する。そして、自身はこういう態度に欠けていたと思う。
多少なりとも努力し、はっきり、少しづつでも自分で自分を良いと認めるようにはなりたいと思うようになった今では信じられない、かつての態度である。気付けば、「そんなに努力も何もする気がないのに、能力を発揮したいと思うことがまず考えられない」と驚くまでになっている。確かに、今なら、とっくにそんな場所から違う場所に移ろうとしているだろう。もし居るなら居るで、努力を重ねていることだろう。「それが人間というか、社会的な人間の当たり前の姿だ」と言われたら、「はい、そうですね」と返すしかないが、どうしてこう変化できたのだろうか? この問いもまた、考えるべきものだと思う。
ここで、数日開けてしまった。流されたということだろう。はっきり体調は良さそうに思えたが、完璧というわけではなかった。体調に大きく関わるのがこの場所を更新し続けることだと、またしても再確認した。何となく訪れた福生からの帰りの電車で、再び、前述の問いを考え、これを書き始めた。「昔の自分が、流され続けられたのは何故?」と問うた。数分後に、「相手をしてくれる周囲の反応が、今よりもはるかに大きく、多かったからではないか?」と思った。そして、極論すれば、自分から動こうとせず、止まって流されているのに、心配し警告したり、叱責してくれたりする人がいるから、それらに反応することで進んでいる錯覚が得られたのだと考えた。まさに「言われるうちが花」ということで、自ら、ひっそりと人目につかない場所でこそ、咲く必要があったということだ。
のろのろと一日を過ごしていたせいで、21時過ぎに福生駅で降りた時、開いているチェーンのカフェは、マクドナルドだけだった。わずか20分程度滞在しただけだが、どちらかというと陰気にも映る外に反して、どういうわけか気分が明るくなっていた。ともかく動いてから着席したからか? 再び駅に向かい始めて、シンプソンズに登場するような黒人の親子連れとすれ違った。「結局、1960年位からあまり変わっていないのではないか?」とFacebookに投稿してすぐ、「勝手に止めているのも他ならぬ自分自身なのだ。でも、進行を眺めたり、進むために止めている場合や、止まっていることにして観察している場合もあるだろう」と思った。
話はさらに前後し、これは先週木曜日か金曜日のことだ。夜、自宅近くの人通りの少ない通りを、自転車で走っていると、何となく手放し運転をしていた。その時、意図せず、前の人を追い抜いたが、右手のその人を見ると、歩きスマホ状態だった。あっ?! と思ってすぐに、「手放し運転と歩きスマホの並行」と浮かんで、なんだか可笑しくもかけがえのない場面に思えた。そして、この場所を空けている間、何を書こうが、この場面を添えようと思った。こじつけるようだが、良い悪いではなく、止まっていても、一人だと思っていても、何かと並行していると捉えれば、動き出すものがあるはずだと思う。動いて良かったと思うはずの動きが。
監視社会
乗り物の窓から外を眺めていると、外の人とよく目が合うと感じて久しい。もしかしたら、自分は特別その傾向が強いのではないか? そう思いながら、誰かに確認することもなく、そのままにしてきた。先日の沖縄でも、走り出すバスからふと外を見ると、若者二人がこちらを見ているように映った。
自意識過剰―。すぐにこの言葉が浮かぶ。無論、そういう場合もあるだろう。でも、この窓外とのコンタクトは、どうもそうではないと思うのだ。過剰でない自意識とはどういうものか、あるいは、過剰な自意識とはどういうものかと自問すると、その定義は実にいい加減なものに思える。それに比べると、僅かだとしても科学的ということか、「外と視線が合いやすいというのはもしや、ある程度距離が離れてしまえば、飛行中の鳥を実際は自分の頭上ではなくても頭上を飛んでいるように感じるのと似て、距離のせいで、相手が自分を見ているように感じやすくなるからかもしれない」と考えた。こう書いてみて、物理的な距離は遠くなくても、窓を隔てると精神的には距離が増すのだろうと思い浮かんだ。決して科学的に考えるのを正としているわけではないのは、いいことだと思う。この場合の距離が増すというのは、いわば対岸化が進むということだが、それにしては、見られているこちら側は、安全圏にいるのだからもっと堂々としていてもよさそうなものなのに、少なくとも落ち着いた感じにはなっていない。むしろ、目を逸らすことも少なくない。
監視社会―。今度はこの言葉がすぐに浮かんだ。見られていることを、負荷に感じているのは間違いないからだ。でもここで、10数年前にtwitterでつぶやいた「たまにはバスの車窓から 歩いている猫を眺める必要がある」を思い出した。きっちり意味を込めて、考え抜いて形にした言葉ではないが、自分では気に入っていたものだ。固定的になりがちな視点を変更することの大切さ云々といった、もっともらしい意味なら、容易く紐付けることができるだろう。
ここで早々に、この言葉の意味を考えるのはやめだと思う。代わりに、気付いたことがあったからだ。それは、猫をはじめとする動物と窓越しに目が合うことは殆どなかったということだ。それは、そもそも乗り物の周囲に動物がいうケースが少なかったからということもないわけではないだろう。再び、この正誤を追及することから離脱すると、また異なる仮説が浮かんだ。それは、人間や動物のような目を伴う生き物だけでなく、こちらを意識するということが見ているということであれば、気付かぬうちに目を合わせているものがまだ他にもあるのではないか? というものだ。空気だってそうではないか? と。
監視社会は、その周囲に、自分たちを監視しているものがあり、それをまだ捉えきれていないのではないか? 監視社会自体を監視している者は誰か? さらにその監視者は? と問うと、断酒継続中ということも相まってか酔いそうにならなくもない。「監視知らずで過ごしたい?」と自問するも、「即答できないのは何故だろう?」と思った。