Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

トンネル

 写実的に見たものを直接的に記述する。そういうことを避けがちだ。そこには、そういう記述方法を受動的で安易だと思っているふしがある。でも待てよ、と思った。それであれば、見るものを選べば良いのではないか?と。受動の中の能動であっても、見るものと見るものを自分で繋げて、それをまた自分で見ればいいではないかと。ここで、見るには、実際の視覚を通してだけではなく、脳の中で思い浮かべているものも加えていることが気になる。区別すべきではないか?と。でも、いずれにしても、ビジュアルの力を借りて言葉を進めているのには変わりないだろう。そう思って、区分はまあいいかとなった。
 最近通り始めたアーチ状のトンネルの最深部あたりで、酔ってハイになり大声で喚き散らしながら電話をする青年と遭い、立ち止まった。私の後ろから来た女性が自転車で彼の横を器用に通過するのを見て、程なく模倣して通過するまで、私の中には明らかに恐怖があった。言葉の感じから判断するに、中東系の青年だったと思う。通過し地上に上がりながら、同じ人間なのに意思疎通が全くできない状況が今後増えるとして、そういう場合にも、それでも意思疎通をしなければならないとしたら、何が言語に相当するのだろう?と思った。それは、痛みや笑顔や涙や怒りや沈黙や戸惑い(例えば視線を定めずうろうろ等)や混乱(例えば絶叫等)といった原始的、原子的、元素的、身体的とでも形容できるアクションだけなのか?―そう自問し、そんなのつまらないなと思った。

続きをどのように探り当てる?

 気付けば、続きを書こうと意識することに、好感や納得感に似た気持ちを覚えて数日を過ごしている。今日は帰り際、「では、その続きをどのように探り当てる?」と自問していた。悪くない問いだと今も思う。きっかけは何気なく眺めたスマホの画面だった。数時間しか経っていないが、その内容はまるで思い出せない。でも、その表示内容から、「こうして眺めて、それにコメントを返すように何かを考えて、あるいは考えたつもりになって、そこからスペースシャトルの分離のように、探そうという意識が解き放たれる、そんな要は受け身な動きばかりをしているんじゃないか?」と思った。

 極端と言えば極端に寄り過ぎているかもしれない。思い浮かぶことは止められず、思い浮かんだ時点で「考えている」状態にある場合もあるとしたら尚更、寒い日に乾布摩擦をするがごとく考えを止めないで次々と考えを意識してみる、そんな対抗策を考えてみた。これは、自分の頭の中に今ある、考えようとしている考えの中身を意識するという、ちょっとややこしい状態だとでも説明できる。

 もう一つ、問いの重要さを思った。もっとも、これは前述の問いの内容というより、問いを立てる行為自体のことだ。問いは、偏りを完全ではないが正す方向に向かわせる気がする。この完全ではない、という半自動ともいえる状態がまた悪くないと思い、本当にそうであって欲しいと思う。どうも、受動や能動のことばかりにこだわっているようだ。そもそも、受動が悪くて能動が正しいという思いがどうしても居座っているように映る。

受動態を通して見る能動態あるいはその逆あるいはその混同体のようなもの

 今日の午後、絵に書いたような強風が絵に書いたように灰色の雲を動かしている中を歩いていた。横を通過する自動車ならいつも通りだったのだろうが、サイレント映画のように音数が減った感じが続いてやってきた。鳩らしき鳥の群れが、眼前で一つの生き物のように編隊というよりももっと本人達以外の意思で形作られたかのような形を保って旋回していった。美しいと思って、陳腐な感想だと思った。でも美しいと思った。切なかった。これを美しいと思うのは別に私だけに限ったことではなかろうが、それは結局人間の感受性の勝手な働きだといえなくもない。それでも、そういう錯覚なり確信なり生得的な感覚なりを持ち得たことを誇りに思う。
 続いて、こうした感想をスマートフォンに記述し掛けて、途中で記述を止めてみようと思った。本当に自身が心に刻むがごとく強く感じ強く思ったことであれば、記録せずとも再生されるはずと思ったのだ。そして、これは能動的なようでいて、書かされるという意味合いも強く見出して、受動的であると思った。いつも近接した言葉の影響を受けてしまう。勝手に近接した言葉の風に舞い上がろうとする。今回は、さっきの鳥の群れの旋回をその風に見立てていた。言葉もまた、自分の意思とは別に、書かされる時があるのだと思ったのだ。
 今、何を思うのか?酒に手を伸ばそうと思えばすぐに伸ばすことができる凪のような停滞を設けながら。それは、続きを書くことの有効性だ。そこからの続きだったり、今続きだと思って書いていることに実はまだ違う続きがあるのに忘れているのではないか?と疑ったりすることだ。ぐらぐらとみっともない飛行をしているかもしれない。でも、その姿は失笑だけを誘うものでもないはずと思いたい。

店舗

 昨夜初めて入るスーパーマーケットで買い物をした。酒を断ったことが影響している気がした。いつもと違う場所や経験で、飲酒欲求は抑えられるというジンクスのような経験則として自分を騙しているルールがあるように思うが、それを利用した。初めての店内は、いつもの大型ショッピングモールと比べ、一瞥して同じ商品が少し高い値段で並んでいて、その種類は少なかった。狭いスペースもあってか、総合的な不便さとでもいうべき、それでいて素朴な空間に、幼少時から青年期の頃の近所の店内を思い起こして、悪い気はしなかった。品定めをしつつ周囲にも目が向かっていた。一見ではなさそうな、ここを日常的に利用していそうな高齢の女性が、ゆっくりと品物を手に取って包装を眺めている。彼女はその後レジで見掛けたが、再会したことを喜ぶレジの店員と少し長い立ち話をしていた。その後ろに意図せず並んだが、店員を急かさないように視線を逸らしていた。いつの間にか身に付いた所作というものか。それでも、そんな配慮は不要だというものか、全く意に介せず、むしろじっくりと会話を続ける感じが店員からは伝わってきたので、ほっとした。時間にしたら、そんなに長くないのだが、私が後ろにいようが、確固として慌てず会話を続けて、きちんと会話を終える、そんな態度を目の当たりにしたことが嬉しかったのだとこれを書き始めてから思った。

 その女性を見ていて思うことがまだある。徒歩だと少々きついが、自転車で10分程度飛ばせば大型ショッピングモールがあることを、当然彼女も知っているはずと。つまり、金額の多寡だけで店を選んでいるのではない気がした。自分の領域に留まってる、否、留まっているだと行動に制約を設けている度合いが高く、実際はもっと能動的な意味合いを感じるので、自分の領域を選んでいると思った。この視点で世界を捉えると、昔から漠然と思ってきた考えに思考停止せず、移動を続けることができる気がしてくる。その考えとは、「結局、部屋や建物で視界を遮ろうと、世界は繋がっているのだから、世界のどこか一部でも汚れていれば、自分の部屋が汚れているのと大して変わりはないだろう。この状態は、ゴミを集めているようだが、後部のファンから多少なりともゴミを空気中に排出している掃除機に似ている。世界が全部きれいにならないとどうしようもない。」といったものだった。

 さっきからずっと、心の奥に本当の気持ち、あるいは普段は意識し得ない気持ちがあるような気がしていることが、気になる。いつもそれを探すのが書くということで、書いたか否かは、その見えなかった気持ちに多少でも触れたか否かの違いだと思いもする。性善説ではないだろう。意識し得ない気持ちがとんでもない、否定したくなるものだってあるはずだからだ。それでも、無意識的には、自分の中に善なのかどうかはともかく、清いものがあると思う。この根拠は?と自問して、自分が自分だけのものではないからと自答した。否定したくない。亡くした友人や家族の意識や意識を形成した物質、呼吸した空気は間違いなくまだ、この大気圏内にあるはずだ。否、大気圏外だとしても同じかもしれない。周囲にあるということにおいて。私の意識に彼らの意識が混ざり合ってくるということは体感し得なくとも、彼らを生かす媒体になっているのがこの身体や思考だと思えてくる。彼らが利用していた店舗を訪れてみようと思う。

 先程、スマホを見たら、SMSが届いており、友人が亡くなったとの連絡があった。SMSから察するに友人の弟からだった。着信履歴もあった。いずれも友人の電話番号からだった。唯一無二の友人だ。嘘だと思うが、逃げるわけにはいかない。何でこんなことにと言うのも逃げだろう。でも、ワクチンを3回接種後、体調が悪いと聞きながらも、こんなことになるとは思いもしなかった。死とはそういうものなのを知った。どれだけ知ればいいのか? 死への理解を更新していくのが生なのか? 読んでくれている人へ。そして、自分へ。こんな状態で書くことはできない。暫く筆を止めます。

解放

 遅い仕事帰りが続いている。それでも帰宅後、荷物を置いてすぐまた近くのチェーンの喫茶店やスーパーなりに出掛けると、時間を取り戻したというか、一日の時間が増えた気になる。得した気になる。小雨は降っていたものの、今日も10分程歩いてチェーンの喫茶店に来ている。
 来る途中、思ったのが、もう3年以上住んでいる近所だというのに、所々にある建物を取り壊した場所に関して、何が建っていたのか、まるで思い出せない方が多いということだ。自分が思う以上に視野は広く見ているものが多いというのも事実なら、それを取り出すことが出来ない場合も多いというのも、私にとっては事実のようだ。
 この思い出せないまま、ひとまずの目的地に辿り着いている状態もまた、迷子といえると思った。大人に対して使うには不適切なようでその実、むしろ迷子という言葉を、幼少期のみに幽閉しており、それを解放したような気になった。
 喫茶店からスーパーに移動する。明日の朝の食事のことを考えてのことだ。周囲の光景には見落としばかりのざる状態でいて、こういうこととなると抜かりがないものだ。暗がりの中を、ふと目を瞑ってみた。何となく、数十年前に過ごした大阪の夜だと錯覚できる気がしてのことだった。そのためには、目を瞑った方が効果的に思えたのだ。言われてみれば、大阪の夜、具体的にはまだかろうじて10代の頃の夜だと思えなくもなかった。固く目を閉じればいいというものでもなく、微かに目を開いて、照明の光を取り入れることで、むしろその当時の光景に接近するような気もして、映写機みたいだとも思った。
 こうした都合の良い錯覚の一人遊びの一方で、気付いたことがある。それは、いつどこにいても消せない光景、言ってみれば、自分の体内の奥底からはっきりとは視認できない自分を眺めようとしながら、体外の光景を眺めているような。時間の感覚はといえば、未来かどうかはわからないが、間違いなく過去であっても、大昔のようであり、少し前のようでもある、但し古臭くはない感じだ。無機的だが、生気がないわけではない。この状態を外に解放するには? と自問が浮かんだ。答えはまだ見つからない。

意識

 深酒ではないが浅くもない飲酒量だったので、中酒とでもしておこうか、ともかく丑三つ時の終わりに眠ったこともあり、起きるのはまたしても正午過ぎとなった。午前中にも一度目が覚めたが、義務のように少し無理して二度寝を意識したら入眠していて、次に目を覚ましたのは、正午前にカラスが絵に描いたような鳴き声でカーカーカーと窓のそばを通り過ぎた時だった。今の住居に住んで以来、最も接近したような気もして嬉しくなったが、いつの間にか眠っていて、しまったと思って目が覚めたのが、正午過ぎとなった。
 目覚めてすぐ、音楽が聴きたくなった。それは、LED ZEPPELINの1stアルバムだった。寝起きの水のように、身体に染み渡る感じで、これまで何百回となく聴いてきたはずだが、こんなに凄い音だったか?!と驚くことになった。決して良いステレオ環境ではないのに、そう思えるのが嬉しかった。「明らかにそれまでのロックの音とは違うと、良くない音質でも分かるとは」と喜んだ。
 このアルバムで思い出したことがある。二十代の頃、友人とカッコ付けで入った大阪のとあるアイリッシュパブで、好きなレコードをリクエストできることになった。その時、このアルバムのDazed and Confusedをリクエストした。周囲には、複数の英国人だかアイルランド人だか、ともかく英語圏の白人がおり、思い思いにそれぞれが会話をしていたのだが、彼らをハッとさせよう、彼らの態度を変えてみようと思い立ってのことだった。友人に「まあ、このソロが始まったら、絶対会話がいったん止まって注目するって!」と得意気に告げていたことを思い出す。結果は、何も変わらず、ただ私が盛り上がり、友人が苦笑しながら「全然反応がないぞ(笑)」と言っただけだった。
 こうした第三者を意識しその変容を期待する行為は、私の中で氷山の一角なのだろうが、覚えているものとしては、それを遡ること約10年前の10代の頃にもあった。三宮へと向かう阪急電車の中で、友人と努めて標準語を話そうと試みていたのだった。何を話していたのかはまるで覚えていないが、「これさー、〇〇だったんだよな」とか「それがさ、〇〇でさー」といった口調だったのは間違いない。殆ど周囲は関西人に違いないとの確信の上で、周囲の態度の変化を味わおうとしていたのだった。
 くだらないことのようだし、事実くだらないのだが、今にして思えば、こういう性向というものは別に私や友人に限ったものではなく、いつでもその辺に転がっているものだと思う。そして、安直だとしても、これを書き始めた時から、SNSがどうしても想起される。でも、くだらないにしても、こういう性向がなくならないことを前提にすれば、「これは社会を意識する態度はなくならないということでもある」と考えたいとも思う。昼間のカラスのカーカーカーを再び意識してみた。カラスは何を意識しているのか? カラスの勝手でしょうかもしれないが。何も意識せずに発していることがあるとしたら、カラスがこれまでより、さらに輝いて見える。