監視社会
乗り物の窓から外を眺めていると、外の人とよく目が合うと感じて久しい。もしかしたら、自分は特別その傾向が強いのではないか? そう思いながら、誰かに確認することもなく、そのままにしてきた。先日の沖縄でも、走り出すバスからふと外を見ると、若者二人がこちらを見ているように映った。
自意識過剰―。すぐにこの言葉が浮かぶ。無論、そういう場合もあるだろう。でも、この窓外とのコンタクトは、どうもそうではないと思うのだ。過剰でない自意識とはどういうものか、あるいは、過剰な自意識とはどういうものかと自問すると、その定義は実にいい加減なものに思える。それに比べると、僅かだとしても科学的ということか、「外と視線が合いやすいというのはもしや、ある程度距離が離れてしまえば、飛行中の鳥を実際は自分の頭上ではなくても頭上を飛んでいるように感じるのと似て、距離のせいで、相手が自分を見ているように感じやすくなるからかもしれない」と考えた。こう書いてみて、物理的な距離は遠くなくても、窓を隔てると精神的には距離が増すのだろうと思い浮かんだ。決して科学的に考えるのを正としているわけではないのは、いいことだと思う。この場合の距離が増すというのは、いわば対岸化が進むということだが、それにしては、見られているこちら側は、安全圏にいるのだからもっと堂々としていてもよさそうなものなのに、少なくとも落ち着いた感じにはなっていない。むしろ、目を逸らすことも少なくない。
監視社会―。今度はこの言葉がすぐに浮かんだ。見られていることを、負荷に感じているのは間違いないからだ。でもここで、10数年前にtwitterでつぶやいた「たまにはバスの車窓から 歩いている猫を眺める必要がある」を思い出した。きっちり意味を込めて、考え抜いて形にした言葉ではないが、自分では気に入っていたものだ。固定的になりがちな視点を変更することの大切さ云々といった、もっともらしい意味なら、容易く紐付けることができるだろう。
ここで早々に、この言葉の意味を考えるのはやめだと思う。代わりに、気付いたことがあったからだ。それは、猫をはじめとする動物と窓越しに目が合うことは殆どなかったということだ。それは、そもそも乗り物の周囲に動物がいうケースが少なかったからということもないわけではないだろう。再び、この正誤を追及することから離脱すると、また異なる仮説が浮かんだ。それは、人間や動物のような目を伴う生き物だけでなく、こちらを意識するということが見ているということであれば、気付かぬうちに目を合わせているものがまだ他にもあるのではないか? というものだ。空気だってそうではないか? と。
監視社会は、その周囲に、自分たちを監視しているものがあり、それをまだ捉えきれていないのではないか? 監視社会自体を監視している者は誰か? さらにその監視者は? と問うと、断酒継続中ということも相まってか酔いそうにならなくもない。「監視知らずで過ごしたい?」と自問するも、「即答できないのは何故だろう?」と思った。