旅の木々
私の場合、旅先では往々にして、他人が何かを落としても自分が落としたのではないか?と思って心配し始める。程なく自分じゃないと分かり、安堵する。疲れる。この繰り返しが呼吸のように発生する。
その反論のようで、今日は、こうした旅は別に非日常を求めたわけではないし、観光というわけでもない、どこか中途半端だが、半導体みたいな状態に自身を仕立て上げておきたい、だから日常の延長だが、たちまち身動きが取りづらくなりやすい環境に移動して来てみるのだ、と、友達が生きていたら「何でそんなストレスが溜まる場所にわざわざ行く?」と言うのに決まっている旅めいた一日の正当化を試みてみた。言葉や文化や、その他さまざまなことが異なるだけじゃないか!? とも思って、こんなことが浮かぶのだから、もっと身を入れてこの環境に接しようと思った。
そんな移動を始めた矢先、木々に溢れる数時間を過ごした。見事だが、この周囲の、木々がない場所はもとより、海を隔てた場所まで、これら木々と隣接した場所=森だとしたら、手放しで見事とは言えない、とまた森に迷う前に袋小路に行き当たった。或いは、そうした周囲にあるはずの森林や自然環境の悪い地域の犠牲の元にこの恵まれた状態があるとしたら、差異でしかないと形容される資本経済システムと同じ構造じゃないか? と思った。
木が枯れる前に、自分が枯れているのではないか? と再び自分のことに目を向けて先の問いをごまかした。その状態に呼応するかのように急激に雲が広がり小雨が降り始めた。今も止んでいない。視界が悪くなるにつれ、クリアに現れたのは、「結局、どういう見立てをどれくらい残したか、それらの見立ては自身を離れても、他人に共有され加工されているという意味で、どのくらい生きているかではないか? 」という問いに似た自身の願望だった。木は枯れたようでも、また緑の葉を宿すというのは、真似たいと、この部分は強く思った。何か周囲にある感情で、犠牲にしているものはないかを考えてみる。