書くべきこと
書くこと、書きたいことは無数にあるのは間違いないはずなのに、行き詰まったという意味での書けない実感に包まれる時がある。今日、目覚めた時がそうだった。空虚という形容は無を表してすらいない程、空っぽな時間を自らがまた作ってしまったように思えた。生活態度、その結果ということかと思った。対比するかのように、先日来考えては止めていた「一定の空間に人が集まった際に感じる人間の攻撃性」が浮かんだ。
これは、どんなに温和そうで楽し気な空間、例えば銭湯や居酒屋やコンサートホールやライブハウスであっても、その中の人数の密度に比例して、人の攻撃性が感じやすくなるという自身の仮説のことだ。もっとも、こんなことはとうに誰かが言っているのだろうが、それでもなお、実体験の積み重ねからどうしても考えたくなっていたものだった。人が多い=ストレスを感じる度合いが高まる=結果、攻撃性があると感じる雰囲気が現れる、といったこれまた当たり前の流れを再確認するだけで、この向こう側やこの奥へ考えを進める大変さに、そのまま考えるのを止めていた。
身体的に密集しても、友人や知人同士といった単位だと温和だったり楽しげだったりする状態は保たれていることなら、気付いていた。異コミュニティとなると、それがどうやら決壊し始めるということかと思って、身体的=生得的なようでいて、そうでもなく、各人が他者を気遣うことで十分この攻撃性は抑えることができるではないかと思った。「人間というか人類というか人は、創造主なのか、それとも人自身なのかは分かるべくもないが、数百年か数千年かの将来に向かって、肉体を超えた精神的な存在として社会を築くことを求められているのか? そういうことが予め意思として備わっているのか? 備わりつつあるのか?」といった問いも浮かんできた。
予め備わっているというのは、全く感覚的なものだが、どうも嘘くさくて賛同できない。それよりも、一定の空間ならびに一定の期間の中で各人が持ち寄った行動や意識が集合体となって、人自身に還流され、何らかの反応が発生して、再び、人の外へ押し出され、押し出されたものを人が再び吸入して、といった動きを繰り返すうちに、人全体の進むロードマップ的なものが人の中に備わってくるのではないか? という漠たるイメージが湧いた。そして、このロードマップにも幾つかの種類がある気がした。どうも一つだけというのは、苦手だ。バラバラすぎるのも嫌だが。
ともかく、身体的に密接だと窮屈ですぐに攻撃的になるのが人の性質だとしようがしまいが、自身にはそういう一面があるのを否定できない一方で、書くことや書きたいこと、書くべきことが溢れているのに書き手の自身が空になってしまうというのは、実に情けないものだ。「一定の空間に、相手を思いやる気持ちが溢れかえっている、いわば、身体は伴わない、思いやりの気持ちだけが乗車した満員電車的な空間があったとして、その中に自身が足を踏み入れたら、どう感じるだろうか?」と想像した。身体を伴った、今と変わらない人のままの状態だと、そういう思いを感受自体できないかもしれないし、感受したとしても、相手が見えないので、そうした思いが怨念にも似た気分を悪くするものとして体調を崩させるだけかもしれないと思った。
今度は、「そこまで飛躍せず、身体は伴った状態、つまり、昨日の朝にもあったはずの満員電車でそうした思いやりの気持ちばかりが溢れていたとしたら?」と想像した。諸手を挙げて素晴らしいとは思わなかったものの、悪くないと思った。現実的ではないとは思わなかった。「要は、やるべきことをやっていない状態に溢れているのということか?」と思って、書くべきことを書いていない状態が、私には当てはまっていると思った。それだけに留まらず、書くべきことを書いていないというのは、やるべきことをやっていないということに、つながっていると思った。やるべきことは? と自問する。やるべきことが、浮かぶ。書くべきことがすぐに浮かばないのは、なぜだろう? こうして、こうした問いを書くべきことと位置付ける、そういう一日が続く。