Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

解放

 遅い仕事帰りが続いている。それでも帰宅後、荷物を置いてすぐまた近くのチェーンの喫茶店やスーパーなりに出掛けると、時間を取り戻したというか、一日の時間が増えた気になる。得した気になる。小雨は降っていたものの、今日も10分程歩いてチェーンの喫茶店に来ている。
 来る途中、思ったのが、もう3年以上住んでいる近所だというのに、所々にある建物を取り壊した場所に関して、何が建っていたのか、まるで思い出せない方が多いということだ。自分が思う以上に視野は広く見ているものが多いというのも事実なら、それを取り出すことが出来ない場合も多いというのも、私にとっては事実のようだ。
 この思い出せないまま、ひとまずの目的地に辿り着いている状態もまた、迷子といえると思った。大人に対して使うには不適切なようでその実、むしろ迷子という言葉を、幼少期のみに幽閉しており、それを解放したような気になった。
 喫茶店からスーパーに移動する。明日の朝の食事のことを考えてのことだ。周囲の光景には見落としばかりのざる状態でいて、こういうこととなると抜かりがないものだ。暗がりの中を、ふと目を瞑ってみた。何となく、数十年前に過ごした大阪の夜だと錯覚できる気がしてのことだった。そのためには、目を瞑った方が効果的に思えたのだ。言われてみれば、大阪の夜、具体的にはまだかろうじて10代の頃の夜だと思えなくもなかった。固く目を閉じればいいというものでもなく、微かに目を開いて、照明の光を取り入れることで、むしろその当時の光景に接近するような気もして、映写機みたいだとも思った。
 こうした都合の良い錯覚の一人遊びの一方で、気付いたことがある。それは、いつどこにいても消せない光景、言ってみれば、自分の体内の奥底からはっきりとは視認できない自分を眺めようとしながら、体外の光景を眺めているような。時間の感覚はといえば、未来かどうかはわからないが、間違いなく過去であっても、大昔のようであり、少し前のようでもある、但し古臭くはない感じだ。無機的だが、生気がないわけではない。この状態を外に解放するには? と自問が浮かんだ。答えはまだ見つからない。