Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

橘川幸夫氏と川田十夢氏という宇宙空間への衛星発射実験その2:森を見ている森、川を見ている川

さて第二回目である。つまり、同じことを違う言葉で伝えようとする試みである。この年末年始はいつにも増して橘川幸夫氏川田十夢氏の著作をはじめとした作品に接している時間が長かった。そして、直接空間を共にしていたわけではないのに、両者の空間の中に居るという実感、その逆で近付けてさえいない実感の両方を覚えていた。それが、こんなブログとタイトルを設けることに繋がったきっかけだと思っている。
 
そんなこのブログが彼らの宇宙空間に向けた実験であることに変わりはないとして、もちろんそれは地球内はおろか脳内のみに留まっているものではない。膨大さや広大さのみが特徴ということでもない。橘川氏らしい名詞で説明するなら、それは「日常」に存在しているものだ。なるほど、先の二律背反しそうな実感の理由が分かるというものだ。それならと今回、宇宙を別の言葉に置き換えようと考えるが、それは折しも昨日21日、橘川氏の約10年振りの新著として発刊された「森を見る力」にある「森」、あるいは偶然にも両者に共通の「川」が適当だと気が付いた。
 
宇宙=森=川。それはいったいどんな森だ?川だ?森の場合、例えば大江健三郎氏が使う森が外界と隔絶された逃避的なコミュニティとするなら、まるでその逆であることが分かる。何故なら、知れば知るほど外をよく眺めることができ外に繋がることが出来る場所となっているからだ(それこそ、「メディア」というものなのだろう)。しかしながら(宇宙という言葉のイメージなら尚更帯びがちな)「だだっぴろさ」や「障害のなさ」は希薄で、むしろ感情を目いっぱい動かす、そんな類の労働を要し、すいすい歩けることはまれな場所だ。このブログでさえ何から話せばいいのか?方向性があり過ぎて困るくらいなのだ。川なのに、一つの方向のみに流れるのではない。冒頭挙げた通り、居るのに近付けず、苦しいのに惹きつけられるとは一体どういうことだろう?
 
それは彼らが「森を見ている森」ならびに「川を見ている川」だからではないか。森は川を見るし川は森を見るのは自然現象として当たり前だから、それはいちいち書くまでもない。あくまで、その意志が通っている様について考えたい。
 
つまり彼らは、まだ分からない森を見て、彼ら自身が惹きつけられている森なのだ。それは何と考え続け、あらゆる方向に流れ、その流れを眺めている川なのだ。時折、彼らが眺めている森や川を露骨に見せてくれることがある。苦しいが惹きつけられる。
 
そんな両者にももちろん目に見える活動がある。最近はどうか。新著というビッグバンもとい、極めて重要な緑化としての森を出現させたばかりの橘川氏は、そのほんの少し前を覗いただけでも、昨年10月には初開催となる「未来フェス」を京都で開催、さらに来月にはその第2回目を東京の高島平団地で開催予定と、次々と外観の異なる森、川を出現させている。また、その少し前の6日にはこの新著の出版パーティーが開催されるが、通常のそれとは異なり、クラウドファウンディングで実現され、当日は多くの時間をゲストのプレゼンの場が占めるという極めてユニークな森、川となっている。
 
川田氏は、昨年「情熱大陸」に登場した、などと言うこと自体が、自身の森や川の中で小石と化す位、橘川幸夫氏同様、森を見ている森、川を見ている川だ。大規模な実験に限らず、日常的に同時進行を続ける多数の連載という作品で、彼に接する表面積を多く感じている一方で、その体積の計り知れなさに圧倒され、寂しさを覚えることもある。
 
寂しさ。ここでピンときた方もいるだろう。再び橘川氏の言葉だが、「寂しくても、留まらないといけない」時代がある。そしてそれは今だと思う。まだ終わりたくないから。次に繋がりたいから。前述した「外をよく眺めることができ外に繋がることが出来る場所」であっても、川田氏の言葉を挙げるなら「次元を超えて」きても、そもそも「拡張」しても、彼らは寂しさに留まっているはずだ。つまり、留まること=見ること=書くことが、外部への原動力になっているはずだ。いったい、どこまで動くのだろう。(続く)