Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

木を見て山を見る

 文章の中でも、いわゆる小説を書こうとする場合、小学生の頃から「木や植物の描写に長けていなければならない、そもそもそういう知識が豊富でないといけない」という思い込みのようなものがあり、それに対し「なんと自分は描写どころか絶望的にそれらに疎いのか」という劣等感のようなものがあった。それなら、身近にある木や植物に片っ端から触れ勉強すればいいというものだが、積極的に意識を傾けることなくその後の何十年かを過ごしてきた。深刻度の程が窺えるというものだ。生家はありとあらゆる木や植物の宝庫で、また地域もそうだったのに、矛盾だらけというのは年齢を問わないということか。
 ともあれ、小さい頃から大人になるまでに読んだ小説に、体感上は「 」「 」といった会話形式と同じくらい登場する木や植物の描写に「よくこんなに書くことができるものだな」と感心こそすれ、否定することはなかったと思う。いっそ、そういう描写のない小説というのもありだなとは思うことがあったが、はっきり才能として認めてきた。
 たまたま昨夜から今朝の丑三つ時にかけて、木に関する映画を観た。飲みながらも没入していた。そして今日は割とお酒が残った頭で、レンタサイクル目当てで舘山寺を初めて訪れ、まずお参りをと舘山寺愛宕神社が並んだ山に登ると、自転車のことはもう頭から消えていた。山には、今朝方まで観ていた映画の実物、檜や杉をはじめ、赤松やモミや名前は失念したが○柿といった木が説明文付きで登場していた。周遊道があり、保護されている林を見て回ったおかげで、復習のような時間を最高の天気の下で過ごすことになった。景観という言葉では何とも軽く、彼らに吹き付ける風に頼らなくても、あっという間に吹き飛んでしまうような、やはり場所も場所だからか、いや、木々や植物、石や岩や土それ自体が放ってくる背筋が伸びるような神々しさ、清々しさがあった。総天然色という言葉を今思い出したが、総天然色のもう一つの本当の意味はこれだ、とも思う。
 祀られている岩があった。天辺岩という名前だった。その付近に来た時、その前にすれ違っていた中年のカップルの男性が、「登るともっと素晴らしい景色ですよ!」と爽やかな笑顔と声音で私に呼び掛けてくれた。思わず会釈して「ああ、そうですよねー」と照れ笑いのようなぎこちない笑顔で返した。そして、殆ど反射的に岩に登ってから、あ、登るのはばちあたりではないか?と我に返り、カップルがもうその場にいないのを確かめて降りたのだった。山を下りてからの帰り際、そんな自分の行動に「馬鹿と煙は高いところが好き」という言葉が出掛かっていたが、今調べて久しぶりに再会した。もっと馬鹿なのは、好きでもないのに高いところに無自覚的に登ることだと思っていたのだ。
 言葉遊びなら、もう一つ、帰り際に浮かんだことがあった。それは、「木を見て森を見ず」という言葉に対しての返答のようなもので、こういう今日のような体験を経ると、言葉通りの意味で木を見ているのだから、森を見ずで何も問題ないと思ったのだ。では、こうした経験を生かして、木や植物の描写をしてはどうか?とも浮かんでくる。確かに有効で実のある文章となりそうだが、私の場合には、読むならいざ知らず、書くということになると、木や植物ばかり見て山を見ず、という状態に陥るのが十分現実的に考えられる。自分の名字の一部に山があることに今目を向けたのが、何とも間抜けだ。山の形も様々なはずだ。