Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

笑顔の動物のイラスト

 淡々と生活していても、派手に気分を高揚させて飛び回っていても、もっとも、たとえ旅行ばかりしていようが後者であることはあったのかといった感じでもっぱら前者だが、袋菓子や使い捨てカイロのパッケージと立て続けに「人が描いた動物のイラスト(何か重複感のある変な言い回しだ)」とすれ違うことには変わらない。今日は、「横浜ロマンスケッチ」のアヒルらしき鳥、「桐灰カイロ」の「きりのすけ」というウサギを見た。また、「ヤングドライ」というクリーニングチェーンのアヒルの前も通り過ぎた。こういうイラストを見る時、胸が締め付けられることがある。彼らは大体笑っているのだが、その笑みに何か申し訳なさを覚える。それだけで胸が締め付けられるわけではないのだろうが、改めて理由を考えてみる。
 まず、その時私はどういう状態か?というと、動物そのものではなく人間を見ているのだと思う。そう思うと一気に、何も問題がないような笑顔を描くことができるなんて、それはつまり人間が、理想を堂々と胸を張って、但し正義を盾にするのではなく自然に、無意識的に体現できるということじゃないか!?と言いたくなるような、かつて可能性として語られていた理想論があからさまに体現できているかのような状態を、彼らに見ているからだと、仮説にせよ答えが浮かんできた。
 一方で、彼ら笑顔の動物のイラストが人間の暴走を食い止めるのに一定の効果があることを、人間は意識せずとも知っているのではないか?とも思った。意図せずとも、抑止効果も求めているのではないか?と思ったのだ。これは、観葉植物に似ているかもしれない。私に限っても、彼らを前にした時、申し訳なくなったり、悲しくて仕方がなくなるだけではなく、どこか安堵を覚えたり、矛盾するようだが楽しい気持ちも生じている。イラストは人工的なものとも形容できるはずだが、鑑賞者に及ぼす効果としては結構人間くさい感情を喚起している。
 もう一つ気付くのが、イラストは同一ではなく、多種多様な作者によるものである方がよいと思えることだ。作風がばらばらな方が、かえって統一感を覚えるような気させしてくる。これは重要な気付きだと思った。こういう笑顔の動物のイラストのような存在をもっと沢山見付けるということであれば、鑑賞という受け身側に回る時間も、なんだか許される気がしてきた。鑑賞側というのは、どうしても許されない立場の性質を帯びているという考えというか思い込みが、まだ自分の中から拭えていなかったことにも気付く。意識的に減らしてきているとはいえ、まだまだ鑑賞ばかりしているのだが。笑顔の動物のイラストに似た実際の動物なら鑑賞すべき気もしてきた。人間以外の動物って、どのくらい鑑賞しているのだろう?