Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

隣接しているが重なり合ってもいる状態

 実家の町の電車で1万円を使用可能な券売機が分からず、行き先と共に券売機の場所を尋ね、目と鼻の先に並んでいたそれで切符を買った。港へ向かおうとしていたのだが、普段あまり使わないホームだからか、いつものホームにいたままコーヒーの自販機に手を伸ばしていた。すると、先程の駅員の方が「向こう側ですよ」と声を掛けてくれた。自分でもコーヒーを一口くらい啜る頃には気付いていたのだろうが、助かった、有り難いと思った。向かいのホームに渡り、開缶してのんびりしていたら、程なく再び同じ駅員の方が登場した。私が行きたい港の名前を挙げ、そちらに向かうんですよね?と念押した。同じホームだが、2種類の港毎に乗り場が分かれており、私が間違えはしないか?と気にしてくれたのだった。年齢も年齢だし、気恥ずかしかったが、やはり嬉しく、同時に妙に可笑しかった。ありがとうございます、と告げると、駅員の方は少し不思議そうな表情を帯びた真顔のまま元の位置へと駆け足で戻っていった。
 5分程して該当の電車に乗り込もうとしていたら、スマホがシートに置かれているのが目に入った。十数メートルもまだ歩いていない、降りたばかりでホームにいる誰かのものに違いない。幸い、先頭の車両だったのですぐそばにいる運転席の運転手にスマホを渡して、今降りたばかりの人のはずだと告げた。運転手は淡々と実にゆっくりと受け取って、そうですか、分かりました、とだけ返してきた。お礼はなかったが、その時、なるほどと瞬間的に理解したことがあった。先程の駅員の方と組み合わさっての理解だったと思うが、それは、ありがとうが飛び交う世界ばかりが良いわけではないということだ。今そこに付け加えるなら、町の空気のようなものにそういうありがとうが混ざっているのかもしれないと思った。あるいは、該当の行為(道案内や声掛け、拾得~届け出)程度なら、自分達も享受してきており、ありがとうという感謝を他人に普段から覚えている(現在完了形)状態なので、いちいちありがとうと言う必要がないのだろうとも思った。
 他人への社会的な反応には、ありがとうばかりではなく、対照的なものもある。ここで、色相環が思い浮かんだ。同じ人物の感情や思いや考えや行為もまた、色相環のようなものだとしたら、全部は拳銃のリボルバーのように繋がっていることになる。それぞれに区分は実質的には、あるように思えない。パーテーションで区切ってもあまり意味がないと思える昨今のウイルス事情にも似ている。自分の感情一つを例にとっても、別の感情が流入している実感があるからだ。不謹慎なことの場合もあるだろう。でも、誤魔化す方がここ、文章を書くという場では不謹慎というものだろう。だが、色相環と言いながらも、反応が感情であるなら、いきなり真逆の感情に切り替わることだってあるのはどういうわけだ?とグラデーションのような色相環がもう絵空事に変わってしまった。でも、色相環を丸ごと否定するような構造は見出していない。反応や感情は、色相環のような構造がルービックキューブのように立体的に結び付いているのではないか?と考えてみた。隣接しているが重なり合ってもいる状態とでもいえるだろうか。それは空気ではないかと突っ込みもする。
 何を言いたいのかがはっきりとしているということは、悪いことではもちろんない。それは言い換えれば区分が出来ている、あるいは区分をしてしまっている、ということかもしれない。何を言いたいのか?を探りながら書いていく、その過程を公開していく、ということを再び始めてみる。従って、これまでよりは多少文章の更新頻度が上がると思う。書くと確実に自分のためになるのが分かっているのに、書かないで数年などあっという間に過ごしてしまう。悲しくもおかしい。自己顕示欲を満足させたりといったあまり言いたくない点も含め、書いて公開するというのは、ひとえに自分のためだが、誰かのためにもなりたいとは思う。