Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

ポメラニアンには悪いがやっぱりタイトルはポメラニアン

 数年前に購入後、それほど使用しないまましまい込んでいたポメラを先々月くらいから取り出した。入力環境によるわけではなく、気持ちの方が先にあるから書いているのだとは思うが、とはいえ、ポメラの使い勝手の良さとうまくマッチしたのだろう、確かに入力を進めるしかないなというポメラの環境に甘えるように断片的なメモを残しまとめるといったことを再開し、その頻度が増えている。書きたいくせに書かないでいる時間の長さは相当だが、その時間と共に進んでいる自分からしたら、そんな長い時間もあっという間だ。飛び降りることもできないので時間の流れをもっと速くするか遅くするか、ともかく自分の手でずらしたくなってきた。それには書くことから始めるしかないと思った。
 書く書く、字面では書くといいながら、それは入力するであることが大半の毎日で、しかしながら実際の筆記具を使用して書く状況もないわけではない。ホテルや旅館のチェックイン、病院の受付、最近だとPCR検査等々、結構あるのに今更ながら気付く。そして、そういう外で手書きをする場面では気持ちと手、あるいは全身がばらばらな動きをしているような、大変気持ちの悪い、焦るほど文字は潰れ進まないから余計に気持ち悪くなる、そんな状態にあることが多いのを、ここで入力せざるを得ず、その時程ではないがやっぱり気持ち悪くなっている。ゆったりと、むしろゆっくり、いや遅くても丁寧に書けば、そんな気持ち悪さは生じないはずと思う一方で、なかなかどうして、その場その場に居合わせた際には、何かインストールされたかのようにそういう状態に突き進んでいる気すらする。

 理由を考えてみる。すぐ浮かぶのは、肥大した自分というものだ。生活者だ、消費者だと口にしないまでも、キーボードで入力すれば早くて楽なものをなんでペンを使「わされる」の?とでも言いたい気持ちが、否定したいけど絶対にあると思い当たる。そういう実感でしかないけど、やらされる、という被害者的な立場に見事に回っているように思う。もう数十年前から思ってきて、ここ十年ほどは意識の底に沈んでいたのか思い出さなかったように思うが、セルフレジではない店員さんのいるレジで、コンビニだろうがスーパーだろうが行列に並んでいると、前の人の会計が終わっていなかったり終わった直後でカゴがまだ着地しているのに次の人がカゴをその真横に置く、そういう社会的な距離の近さは、今更挙げるまでもない程日常に溢れかえっているけど、それってやっぱり変だ、意識の上では強い消費者のつもりでいてその実、何か弱い者同士を演じ合っているような状態に見えもすると思っていたのを久しぶりに思い起こした。

 かくいう自分もまた、2005年のことだったが、都内にあったレジ前でオーダーするシステムの安い和食チェーン店で、メニューを眺めていた時、妙に自分たちの後ろに続いている男性が気になって、慌てて誇張気味に機敏な動作で注文をして、一緒にいた知人に慌てなくていいじゃない!と窘められたことがあった。一般化するわけではないが、結構同類の敏捷さももうとっくに溢れかえっていると思う。でも、そういう恥ずかしい動きを率先してやっていたのは、なかったことに出来ない以上、やっぱり理由を考えることで緩和したくなる。間違ってはいなくても、その理由を恐怖心でまとめてしまうのではまだ少々都合がいいように思う。

 今レジ前や受付前にいると思って考えていたら、ワンルームというか狭い部屋同士が歩いたりすれ違ったり隣に並んだりしているイメージが浮かんできた。もっと具体的にイメージしようと思うか思わないかの間に、段ボール箱の天地を開けて筒状態にして、そこに胴を入れた、要するに小さい頃の自動車ごっこ(今はあるのかな?)をしているような他人同士の集まりが浮かんできた。自分の土地、領域が猫の額のように狭いイメージ。それだったら、間に遊び、余白の土地があると思えば済むようなものだが、翻って自分でそんな土地をイメージできるかというと自信がなくなる。人口密度とは関係ない、隣接している感、もしかしたら自分が侵入してしまう、先の例だと自分がもたもたすることで次の人の土地がやってくるのにぶつかって実質的に侵入してしまう感、そんな心理状態も想像していた。土地が広い場合の方がぶつかりやすそうだが、あんまりそうは思いにくいのはなぜだろう?

 額を持ち出し猫を使った上に犬まで登場させ、随分なものだが、冒頭にポメラのことを挙げていたのが目に入った。すぐにポメラニアンが浮かんで土地の狭さ=土地の小ささ=小型犬、という連想となってしまった。いろんなものを結び付けて生きているのだとしても、その結び付けるは隣り合うや重なり合うだったりすることもあると思いたいけど、ともかく、どんな気分や状況だろうが、文字面でたやすくダジャレが浮かぶのが滑稽だ。レジ前や行列内と「むしろゆっくり」も結び付けばいいのに。このポメラニアンが鎖で結ばれている飼い犬かどうかはともかく、「品種改良を重ねることで小型化した」ことを知ったら、やはり挙げないわけにはいかないと思って入力した。書くでも入力でも、あらかじめ区画が決まっているかのような、その線をなぞるだけのような帰結は、書き手にとってはつまらないものだ。では、この続きには面白いものがあるのか?違うものに侵入される、いやそれでは受け身だから、違うものに侵入して品種改良をするということか。