Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

目覚まし時計・烏・鳶・年賀状

 気になるが何故かははっきりしていない、いったんにせよどういう終わりとするかも分からない、そういう頭の中に苦労が発生するであろうことこそ書きたいと思って、今朝の場合は予定通りには止めなかった目覚まし時計を元にするとそういうことになりそうだと思いながら家を出た。だんだん日記的な日記とでもいおうか、書き慣れた感じを帯びた文章の集まりになってきているような気もして、その点は嫌になってくるが、どうやら毎日書いて公開する、あるいは毎日公開に間に合うように書くことを課すのは、それ相応に未だ未だ負荷を自分に与えている実感があるので続けてみる。帰宅すると、目覚まし時計のことはぼんやりと遠のいていて、代わりに、年賀状を書いていた時の清々しさだとか、寒風の中を風に乗ってなるべく羽ばたかないでいる烏やごくたまに街中なのに目にすることがある鳶の、今年になって調べて知ったのだが「帆翔」という動きを頭に思い浮かべることになった。彼らに意識が向かったおかげで、秋以降今に至るまで風の強い日が多いことにも今更ながらに改めて気付かされた。とりわけ連日盛況な烏の場合は、宛ら犬は喜び庭駆け回り状態でもあり、笑ってしまいつつ何か贅沢な経験をしている気にもなる。
 年賀状の方は、いずれ解明したいと思って少し前から気になってはいた。自分の文章というものがあるとしたら、「書く」について結局は書いていると思うことが多いが、年賀状も書くに大いに当てはまっているどころか、書かないと投函に繋がらないのだから書くと運命共同体みたいなものである。当たり前のことを挙げたようだが、私の場合は文字通り、ほぼ無地の裏面に筆ペンで書くことを続けていて、今年の場合もその方法で五十枚程度を書き終え何とか25日に投函済みとなっている。プリントする方が楽だし確実だし、また、この文章に求めるものとは対照的に、何もわざわざよりしんどい方法を選んで書きたいなどという気持ちはないはずなのだが、普段はほぼ使わない数本の筆ペンが数年連続で年を越えてくれており、今年も登場している。
 文面はどうか?文面も毎年そんなに変わっているわけではない。干支の動物の方が余程表情豊かというものだ。もちろん、相手によって添える言葉に違いがある場合も少なくはないが、基本は同じ類だといえる。それでも、ギターではないが書き続けているとドライブし始めるというか、基本的に同じ文字群の連続の中にあって、頭の中にはその相手のことはもちろん、それ以外の、良い意味でよそ事のはずのことも浮かんでいるのに気付く。そして、その相手のことと、それとは別のことを同時に思い浮かべているような状態が清々しさを感じさせる要因になっていると思う。これを上手く精緻に書き残すのは難しくしんどい作業なので、書き始めて正解だったようだ。年賀状を毛筆で書くというのは伝統的な行為であり、背筋を伸ばして折り目正しいことに自分を向き合わせている、だから清々しいのだと結論付けるのも大嘘ではなかろうが、やはりどこか嘘くさく思えてくる。2月にならないうちにいったんは忘れるのだろうが、今年の場合も清々しいかな?とちょっとした期待も浮かべて書き始めたら案の定清々しかった。会社関係も多数含まれており、会社は最近はやりの年賀状廃止の流れに乗って社員に年賀状を支給するわけではないから細かいことをいえば自腹なのだが、大いに結構、だって得をするのだから、という考えは今回も変わらなかった。

 それで、烏や鳶だが、この年賀状との幾つかの共通点を見出すことになった。鳶はともかく烏の場合だと毛筆の墨の文字色がまず浮かんだが、そういう直接的なものよりも帆翔と挙げた通り、風に乗っているという行為、あるいは状態に書くとの共通点を見出そうとしていた。彼らが風に乗っているのは、乗ろうという意志を端緒にしているのだとしたら、書こうと思って書いている年賀状の場合と似ていなくもない。もっと気になるのはその後だ。風に乗っている姿はどうみても心地良さそうにしかみえないから、年賀状を書き続けている時と似ているなと思っただけではなく、そこには、1秒でも長く風という他力を使うことで自分の羽ばたきという労力をセーブしよう、といった往年の倹約家の主婦とでもいうべき意図が見え隠れしているようで、妙に可笑しくもなったのだ。これだって、年賀状で得をしようとしている自分の欲求に似ていなくもないと思った。でも、もっと見出すべき共通点があるのでは?と思うことになった。その共通点とは、受動態であり能動態という矛盾した状態ではないか?と思った。というのも、烏や鳶は、風に乗っているという意識なのか、自分たちは風に運ばれているという意識なのか?という問いを思い浮かべて、前者は能動態で後者は受動態だが、待てよ、そんな自意識があるとしたら、両方同時にあるんじゃないか?と思ったのだ。それがどう年賀状と結び付くのか?だが、年賀状を書いているという状態はこの場合、風が吹いているようなものではないかと思った。すると、自分の頭の中が烏であり鳶であるように思えてきた。宛名にある相手について湧いてくる思いや考えと、それとは別に浮かぶ思いや考えの、どちらがどの風に向かって乗ろうとしているのかは分からないが、ともあれ、頭の中に浮かんだそれらは、年賀状を起点に現れたもの(能動態)であり、現わされたもの(受動態)でもあると、いったんはこう思ったのだ。だけど、少々袋小路に入った気もしている。そういう両方の態が同時にある状態は、別に特別なことではないはずと思ったからだ。

 だったらと、再び擬人的に烏や鳶の自意識を想像してみる。捏造なのかもしれないが。彼らは、あるいは彼らのうちどちらかは、風に乗っている時自分は進んでいると感じているのだろうか?という問いが浮かんだ。止まっていると感じているのだろうか?とも思った。そして、この場合もまた、どちらもあるのではないか?という袋小路にもなった。そして、年賀状の場合、進んでもいるし止まってもいると思った。そのどちらかをどちらかにまとめねばならないとしたら(気付けば、こういう二項対立の言葉を見立てて、いずれか一方にまとめようとして頭の中であれこれ理屈にならない理屈を考える、それは結構しんどいのだが、それを一人楽しむということを以前から時々行っている)、進んでいるということにまとめる方が妥当かな?と思った。つまり、止まっているというのは、動いていると言っている、あるいは言いたいことになる。

 書き終えた年賀状だが、元旦に届けるための期日である25日ということもあり、その投函にあたっては最寄りのポストや郵便局ではなく、若干の不安感から電車で中央郵便局に向かった。その時の途中にあった横断歩道の長い長い信号の待ち時間を再び思い出した。もちろん、私は足を止めていた。信号やルールに身を任せていた。でも、通常なら早く青に変わって欲しいと思うはずなのに、その時は、信号の待ち時間がなんだか有難かった。年末だからというのでは、さっきの伝統行事と同じで嘘くさい。本当に止まっていたのか?と本当に進んでいるのか?の両方の問いが浮かぶ。目覚まし時計は進んでいる。そして毎日止められているという止まるもあるが、いつか止まるという止まるもある。夜眺める目覚まし時計は、目覚ましらしさが朝よりはまだ弱いと感じる。ここに来て、このナカグロで繋がったタイトル名を付けた。干支や時刻みたいでもある。そして、このナカグロの中に隠れている文字があるようで、その文字を書き起こしたくなる。