Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

 水を持ち運ぶことは、ペットボトルの登場以前以後では大きく異なっているはずだ。どうやって調べるのか?ちょっと考えるのはしんどいのだが、有史以前から不可欠なのが水で、いつだって、持ち運び可能なら持ち運ぶことの方を人は選択しているはずということなら間違いないだろう。もしかしたら、飲量自体もペットボトルの登場で変化しているかもしれない。ペットボトルの登場以降、増加している印象を覚える。
 そんな不可欠=重要な水だが、存在感を放たないでいることがあるのに気付く。また、透明だけにその透明人間っぷりを思い出して笑いもする。というのは、居酒屋やバーに入った時、以前ならほとんどしていなかった差し水というのをしたくて、持ち込んだペットボトルをテーブルに置くことがあるのだが、店員の方に注意を受けたことがないのを思い出したからだ。目に入っているのは間違いないのに、スルー。ちょこんと座っていようが、これが犬や猫なら大騒ぎになっていることも多いだろうし、同じ飲料でも缶ビールやウイスキーの小瓶などなら尚更だろう。
 昨日、私物という文字を少し書き残したのだが、今日も再び思い出すことになったのは昨夜訪れた先にもこのペットボトルと一緒だったなと思ったからだ。昨夜、冷たい隙間風が通り抜けるも暖かい江戸時代の酒屋さんで、何でもないような贅沢な時間を過ごした。その時も、ストーブの側に腰掛けながら、持ち込んだ飲み掛けのペットボトルを自分の横に置いていた。一年前に続く二回目の訪問だったが、一人店主のおばちゃんは私のことをすぐには思い出さず、何杯か飲む途中で交わした言葉で何となく思い出したようだった。引き戸を開け暖簾をくぐると、そのおばちゃん、初訪問らしい女性客、常連らしき既に酩酊気味のおじさん、こちらも常連のようだったが寡黙に淡々と飲みながら、あたりをさりげなく気遣っている建設関係の制服を着て頭にタオルを巻いている青年の四人がいた。そこに割り込んだ感じはしなかった。自然発生的、あるいは反射的に挨拶をすると、わざとらしくない、満面ではない笑みを伴った挨拶が返ってきた。酩酊気味のおじさんは確か、視線とうなづきで返事をしてくれた。私も含め、その場の全員がほんのちょっとだけいつもとは違うであろう笑みを浮かべ、再び自分たちの時間に戻っていった。入るとすぐ、おばちゃんが近付いてきて、どこでも座って、あったかいお酒でいい?と案内してくれた。注文後は、無言でお客とおばちゃんがそれぞれ話している声、流れているテレビ画面、暖かいストーブ、その暖気をくぐり抜けてくる冷たい風に身を任せていた。無理に話すこともなく、知っている者同士も知らない者同士も混じって側にいるというのはいいものだなと翌日の今日思い、こうして文字として残している。その時もそう思っているのだろうが、文字としての認識はしていなかった。こじつけのようだが、その時の認識は、水のような認識といってもそんなに間違っていないと思う。沸いてくる、流れ込んでくるものだったと思う。流れていく前に書き残したいと思って良かった。この感情は私物なのだろうか?あるいは、共有物になるのだろうか? 水は私物として運ばれインプットされ、アウトプットされていく。その水の何パーセントかは体内にあったとしてもその人間は死ぬのだから、やっぱりアウトプットされる。そういう意味で共有物でもあるとしたら、水から成り立っている以上、人もまたそうなのだろう。では感情は?と思ったのだ。そもそも感情だって水から成り立っているといえるのではないか?私物から共有物への流れと、その逆の共有物から私物への流れも、同時にある場合も交互に入れ替わる場合もあるのは間違いないが、互いに混ざり合ったり反応し合うことはあるのか?と思った。
 冒頭から数行を書いた後移動し、今は複合施設の1階にあるだだっ広いスペースでこの途中からを書いている。20以上の丸テーブルが互いに2,3メートルの間隔を設けて置かれて開放されている。若干寒くはあるものの、大きなガラスの向こうの寒さと比べれば、全然気にならない。それどころか無料で利用できるのは、私に限らず多くの人にとって有り難いことだろう。この場所もちょうど1年振りの再訪となる。たまたま泊まったホテルがこの複合施設内にあるものだったので、この場所を知ることになったが、初回から魅せられていた。昨年はこの場所で、仕事もしており、思いのほか捗ることになった。勝手ながら感謝も覚える場所になっていた。
 魅せられたのは、この自由な感じであるのも間違いないと思う。いざ旅となっても、ろくすっぽ調べずに初訪問となることが大変多く、2回訪れたパリでもエッフェル塔モナリザを手始めにその他およそ当然行っているだろうという場所には悉く無縁な行動を意図せず繰り返しているが、たまたま行き当たりばったりのように知った先のお酒屋さんやこの複合施設の大共有スペースみたいな場所を訪れると、感謝だけではなく少し誇らしい気持ちにもなってくる。ここまで書いて、そろそろチェックインしないといけない時間となった。ここまでしんどい思いはあったか?私物、共有物、水について考え抜いていないという思いがそれに当たるだろう。この続きまでは、水のようにいきたいものだが、水に倣って、流れていこうと思う。