自転車の調子が良くなく、その良くない度合いが加速して、乗り手としては飛ばすのも躊躇われたため、自転車には悪いと思いながら、数キロ先の自転車店に出掛けた。20時を過ぎようとしており、近所の自転車店が軒並み締まっている中、初めての店を目指して、加速しかけては減速し、向かった。病人を乗せて車を飛ばす光景が、これを書いていて浮かんだ。一方のこちらは、病人にまたがって、病院に向かっているのも同じだと、その昔、何かのドラマかマンガかで、病人に車を運転してもらって病院に向かう場面があったなとぼんやりと思い出した。何だったかまでは思い出せなかった。
こうして、言葉遊びを交えたような書き出しをしているのも、自転車が完治はしないものの応急処置は何とか済んだからということにしたい。この1週間程度、異様に後ろブレーキが反応して、ブレーキを握りしめるのが怖くもあったが、だからと言って、前ブレーキを思いっきり先にかけるわけにもいかない状態だった。帰り道は、ちゃんと後ろブレーキをかけながら、それなりに疾走した。心底冷え込むようになったものだと思いながら、来た道とは別の道に入り込んだまま、多少迷いながらも帰宅した。
自転車店は、巨大なショッピングモールに入っていた。原風景というわけではないが、すっかり慣れて、インプットされているということか、どこか引っ越し前の住居の近くの光景にも感じた。何より、有難いことが待っていた。
修理を終えて、モールの中を何気なく歩いていると、灯台下暗しとはこのことだろう、スーパーマーケットのエリアが眼前に広がった。自転車の修理が伴わなければ入店しないままだった可能性の方が高いそのエリアに、多少高揚する気持ちで入った。歩く距離に比例して、今思い返せば、楽しい気持ちになっていたと分かる。今日の楽しいというのは、少し、悲しさも帯びているものだとも、今思った。敬虔ということなのか、どこか猫背がちな方が本来は多いはずの私の背筋も伸びていたと思う。どこにでもいそうな、以前この場所で書いた白い作業着を着た野菜売り場の店員の方が、今回は男性の方が圧倒的に多かったが、きびきびと動き回っていた。収穫している光景にも思えなくないなと、これも今思った。何だか、背筋が伸びている割には堂々とできないというか、申し訳ないというか、遠慮がちになりながら、普段と少し異なる品揃えに再び楽しい気持ちが湧いていた。
広大なエリアだったから、外の冷気とは異なるとはいえ、冷たい印象を覚えてもおかしくないかもしれない。実際、そういうスーパーマーケットの空間を経験したこともある。これは私の知覚がそう反応しただけであって、客観性はおそらく甚だ伴わないものであっても何らおかしくない。それでも、冷たいどころか、会話もなくても暖かい感覚を覚えていた。
スーパーマーケット、ショッピングモールは、かつての商店の集まりを駆逐した後にひとまとまりの巨大な資本の場として、出現した。だから、本来は近所にあった店達まで価格競争を主因として無くなり、車で遠出をせねばならなくなった―こういた話だって、そこら中で語られている事実だろう。確かに、そのかつてあった小さな店達に思いを馳せることは大切だし、原風景の一つだと思う。その一方で、今日の経験を経て、遅まきながらというものだが、以前よりはっきりと思うのは、今日のようなショッピングモールだって原風景だと思うことは自由で、要は、原風景は複数種あって良いだろう?良い!ということだった。もっと加速してこなければいけなかったのは確かだろう。でも、ちゃんと減速してきたことだってあるだろう。そう思って、買った食べ物を早く食べねばと思う。眠る二時間前は、食べないように意識しているからだ。ちゃんとゆっくり噛んで食べるとなると、尚更急がねばならない。