Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

ガチャック

 今朝、ガチャックを使って書類を綴じようとして、すんなり行かず、いらいらして思った。ガチャックだとかホッチキスだとかクリアファイルだとか、書類を整理するツールの類というものは、それ自体に罪はないが、どうも倦怠感を抱かせると。その理由は、そうした手っ取り早い整理の裏に、先延ばし、思考停止を見るからだろうと思って、それで終わり掛けた。
 ここでその正否を問う前に、こうやってその日に起こったこと、思ったことを書くというのは、それを日記と呼ぼうが呼ばまいが、昨日この場所で書き残したオリジンな状態にも似て、もっとも自分らしい状態の記録の一つなのかもしれないと思い浮かんでいた。それを言うなら、実際に眼前で起こったことでなくても、頭の中に浮かんだことだけでも成り立つではないか?! つまり、何だろうが今日思い浮かべればいいのだ、今日思い浮かんだことにしてしまえるではないか?! そんな声も聞こえてきた。この「してしまえる」というのは、やっぱり嫌でご免こうむりたいと思う。
 ここで、本当に昨日も今日も思い浮かんでいたことだが、まさに「してしまえる」を体現したようなことを日々積み重ねていることは、少なくとも自分に対してはごまかしようがない。それは、こうした文章において、自分がまだよくつながりを見出していない箇所を、「えーい、ままよ」的な投げやりな姿勢、それこそ冒頭の思考停止状態で、展開し、論旨にしてしまって、結果的に、それなりの長文になっていることも少なくないからだ。もちろん、こういう箇所は、その文章全体のごく一部であり、割合としては多くを占めていないという実感はある。それでも、これは偽装といえる。

 冒頭のいらいらや思考停止に、他者依存という言葉が浮かんでいた。自分への依存をもっと行えばいいではないか?!ともっともなことが浮かんだ。その上でいらいらすることがあったらどうしよう?と思う。そのいらいらが、いかに正当なものだとしても、その原因は知りたくないと思った。これは、逃避なのか? 現実に依存してから離れればいいのか? そうした離脱があるとして、それは現実を見て対処したということにしてもらえるのか? どこかで、他者依存を挟まねば論旨は展開しないのも確かに思える。