私に限ったことかもしれないが、言いたいことのうち、具体的な相手がいて、かつ、それが不満の類だとすると、とりわけ頭の中の占有率が高くなり、当人が体感しているだけだとしても、明らかにこの場での転調のような思考の移動や発想の広がりが影響を受け、失速してしまうことを、たった今確認している。膨大な未使用の領域があるといわれている頭の中なのに!と情けなくも腹が立ってくる。検索する気はないが、「言いたいことをその場でいう技術」の類の書籍なら、いくらでもありそうだが、それもそのはずだと思う。こうした閉塞感というより、失速感はなるべく味わいたくないからだ。
とはいえ、現在の頭の中が本当に失速状態にあるのだとしても、そうした他人の意見を元に加速するというのも避けたいと思う。自分で加速することに意味があると思うからだ。それは何故?と考えて、この場所の別の記事で書いたかもしれないが、頭の中に汗をかくことに他ならず、それは外部には存在しない得難いエネルギーを自分の中から獲得できるからでは?と浮かんできた。自家発電のダイナモということか。それにしても、題名をダイナモとしておくくらいに、失速している。この場合こそ私に限ったことだが、ダイナモの反対語に台無しがあるというわけだ。
ダジャレに終始せず続けてみる。自分の中から新たなエネルギーを取り出すということでは、一人での音楽を思い出す。他人のプレイや楽曲を参照せずに、自分の手癖から紡ぎ出すギターのフレーズを思い浮かべる。それでもそこにあるのは、自然の音や自分や他人の声音といった、あらゆる外部の環境への依拠だというのは間違いないだろうと想像して、結局観察してしまうのか?影響を受けてしまうのか?依拠してしまうのか?と悔しいような感情が湧いてくる。だからこそ、と思い直す。自分の中に格納した、元々はオリジナルではない言葉や音を失わずに、つまり、その保存方法は自らが試行錯誤で編み出して、その保存したものを元に、なるべく外部を参照しないでその先へと続けるしかないのだと。それが加速へと至る方法なのだと。