タイヤ
3年程乗っている自転車の後ろタイヤがパンクしていた。ふた月程前の点検時、タイヤが摩耗しておりパンクの可能性が高いこと、次回パンク時はタイヤ交換が必要なことを伺っていたが、その通りになった。夕方修理に持ち込むと、「45分程度時間が掛かるが何とか今日渡すことはできる」となった。
あっけなく交換できるものだと思いながら、すり減ったタイヤのことを思い浮かべた。普段は殆ど意識しない期間が何年もあったのに、いざ交換となると、途端に寂しさや切なさを覚えたりするものだ。もっとも、それらは最初から摩耗済みの軽い感情な気もする。溝がなくなったツルツルのレーシングタイヤみたいなタイヤとの溝なら深く残ったまま、次に自転車を取りに伺った時には、もうタイヤに触れることはないのだろうと思った。
微かな変化を思う時間を日々設ければいいのか? そういう場合もあるだろう。でも、恐ろしいことも思い浮かんだ。普段、タイヤのことを意識しなかったからこそ、寂しく切ない感情が湧いてくるのではないか?と。
45分になる直前、自転車店を再訪した。見事に新品なタイヤが実装されていた。「前のタイヤは?」と尋ねると前輪のことだと捉えられ、「まだ大丈夫ですね」と答えが返ってきた。交換となったタイヤのことだと告げると、ダストボックスを開け、摩耗したタイヤが現れた。触りながら、どんな状態になっていたのか尋ね説明を受けながら確認していた。リサイクルの有無を尋ねると、「廃棄ですね」と答えが返ってきた。触りながら、「お疲れさまでした」とタイヤに告げた。「なんで敬語?」と突っ込むべき、第三者が傍にいることを意識した他人行儀な言い方だ。店員の方は、業務終了を控えてか、今日も働いたという充実した表情に少しばかりの笑顔を浮かべながら、「ありがとうございました」と私に告げた。その声を右頬で受けながら、タイヤから手を放し新しいタイヤが装着された自転車を押して帰宅へと向かった。