Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

サーフィン

 ネットサーフィンというのは相当久しぶりに使う言葉で、こうして書く場合、少々勇気を要する類の言葉になってきている。随分この言葉も使わなくなり、当の行為もしなくなったものだと思い当たる。心地良い類ではない疲れを覚えるからだろう。
 今日はいつもよりもさらに短い睡眠時間で起きねばならなかったが、その原因はネットでとある移動費用の検索を何時間もして夜更かししていたからだった。これも、一つのwebサイト内とはいえ、ネットサーフィンだなと今更ながらにさっき思った。実際のサーフィンは、亡くなった従兄が何十年にも渡って勤しみ海外に出掛けるほどのサーファーだったこともあり、身近な一方で自身は一度もボードに乗ったことすらない有様だが、それでも、このネットサーフィンよりは心地良い疲れを覚えることができるはずと想像できる。
 ネットサーフィンという呼び名でもそうでなくても別にいいが、心地良いか否かは、要はどのように眺め続けているか?というこちら側の姿勢の問題なのだろう。例えば、この場所でこうして書いているということ自体、サーフィンの類だとも言い表せなくもない。何を言おうとしていたのかが分からなくなり、尺取虫のように行と行を行き来している。それでも、一旦にせよ、書き終えたという地点に達すると、一種の興奮も伴う、心地良さがある。少なくとも、心地悪いということはない。これは、我欲の側に寄り掛かった、あるいは我欲の側に背を曲げた姿勢ではないからではないか?と思った。何故なら「何を書きたいのか?」が分からなくなりながら、当初は想定していなかった問いを見出しながら書くことが多く、それもまた解を欲しているという点で我欲ともいえるが、前者の、既知の快を得るための我欲と比べると、自己犠牲の度合いが高いように思えるからだ。自分を大切にするための自己犠牲という言葉が浮かんだ。それは、他人のために楽しむことを実行する、といったこともあるだろう。自分が苦しむことを目的に、実際に苦しんでみるというのでは、救いがない。サーフィンになっていない。
 心地良いサーフィンというのは、受動と能動が一体化を図っている状態ということか。色々な状況でサーフィンができるということかと思って、ルーティーンやサバイブという言葉よりは、サーフィンの方が生気があって良いなと思うことになった。これから使う回数が増えるかもしれない。