Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

雨上がりの夜空に花札のようなお月様

 いつも立ち寄っている大型ショッピングモールからの帰り道、タワーマンションの横に、雨上がりだからか靄の掛かった月が間近に浮かんでいるのが目に入り、「ネオ花札だ」と思った。花札の構図を想起したのだ。狙って待っていたわけではなく偶然だが、安直な発想だとしても、実際に目の当たりにすると気持ちの良いものだ。「ジンライムのようなお月様」というべきかもしれないが、それは今ようやく思い浮かんだことなので、やはり、その眺めの気持ち良さに圧倒されていたのだろうと思った。
 考えてみれば、月のように地上のあらゆる場所で眺めることができる同一の存在というものは、組み合わさることができる光景のバリエーションも無限だろう。そういう意味では、花札だけではなく、もっと連日何らかの構図を見出していて良さそうなものを、よっぽど感覚が麻痺しているんだなとも思った。麻痺といえば、昨年、皆既月食があった時、夜道を約2㎞程歩いて目的地である露天風呂に向かっていた。その途中で、月が見えない状態に遭ったのだが、すぐに「あらかじめ皆既月食があると分かっているから、こうして気付いて眺めているけど、知らなかったら、いくら夜空を眺めながらこうして歩いていても、月がないことに気付いていないんじゃないか?」と思ったのを思い出した。
 「眺めていないようでも、想像以上に眺めているのが自分も含めた人間だし、その逆も然りか?」と思って、「否、それは都合良い言い方というもので、眺めていないようでも想像以上に眺めているのが人間だが、それを取り出して再生する度合いには差がある」と言うべきだと思った。花見の時期は過ぎても月見はできる。収録は否応なく為される。では再生は?と自問し掛けて、「再生という言葉はいつから『悪い状態を良くする』意味に偏ったのだろう?」と、また違う問いが浮かんできた。問いもまた月のようなものだと思った。それを言うなら、組み合わさる言葉が無限にある言葉もまた月のようなものだ。