Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

先般と先達て

 仕事のメールや何らかの文書上で、キーボード入力の失敗による入力し直しよりも煩わしいことがある。月日を入力した際、曜日を入れようとして、「はて、何曜日だったか?」と、PCの右下にもあるとはいえカレンダーを見返すことだ。昨日や今日、あるいは特定の曜日に定期的に実施される場合を除けば、曜日を空で覚えていることは稀で、あーまたか、と曜日をチェックすることになる。もちろん、特定のイベントがあったことは覚えているのに、月日は忘れてしまっているケースも多い。忘れがちな順番に並べるなら、曜日<日<月、といった傾向にある。
 「月や日はともかくとして、そこまでして、曜日に拘らなくてもいいのではないか?」という考えが、他者が言いそうな発言として浮かぶ。返信時、メールの件名を修正するのが多いのに似て、日中、どうも先回りや配慮といった言葉で誤魔化しがちなこうした行為に関して、もやもやした気持ちを記録したいと思った。
 そもそも、なんでこんなことを繰り返し続けているのか? それに対し、「相手にサービスをして当たり前だ」や「相手は自分が思うよりも事態を把握していないものだ」といった言葉が、どこからともなく浮かんできて、その言葉を疑うことすらせずに、ただ例外的な行動をするのが怖くて、そうした馬鹿丁寧というか、自己満足な加工を施しているのだと思った。この場合は当然、自分が悪い。一方で、相手に非があるのでは?と思うこともある。この相手というのは、私自身も含めてのものだ。つまり、時代の雰囲気みたいな集合的な意識に対して言いたいこととなる。それは、「あまりにも広範囲に渡って、手取り足取り導いてもらうのが当たり前になっているのではないか?」ということだ。真剣にその物事を捉えようとしていたら、そうしたサービスの享受者に偏らなくても、自分で打開できることは多いはずと思ったのだ。これは、プリントアウトせずに眉間に皺を寄せながらPDFと別のファイルといった異なるアプリケーションのファイル間を照合する時のように、最初は困難でいらいらさえするが、そのまま止めずに続けていると、ランナーズハイではないが、その苦労が緩和された凪のような状態が訪れることがあるのにも似ていると思う。
 さて、これは帰宅後考えながら書いていることだ。日中は今日もまた、顧客向けのメールにおいて、〇月〇日(〇)といった入力が複数回登場する短文ではない文章を作成し送信した。でも、また別のメールで、というのはある一文の始まりだが、〇月〇日(〇)とするはずのところをほぼ無意識的に「先般」としていた。よっぽど面倒だったのか、入力してすぐ「あっ、これがあったか!便利だな『先般』って」と少し可笑しくなった。これが今回の文章のきっかけにもなった。そして、20年程前、頻繁に通っていた取引先の担当者が「先達て」という言葉を多用していたのを思い出すことにもなった。その当時は、「なんだか仰々しいな」という印象だったが、背景には日付や曜日を特定する煩わしさもあってのことかもしれないと思って、これまた少し可笑しくなった。