Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

ニュートラルな状態というか恣意性のようなもの

 寝起きで喉が渇いているのは普通のことだが、今朝は、睡眠時間の多い少ないでその度合いが変わることに、はっとしながら目が覚めた。日曜日にはよくあることだが、昨夜もまた早く休もうと思って結局1時2時まで起きていて、睡眠時間がいつもよりも少なくなるパターンだった。そういう場合には、とても渇いているが、十分に睡眠を取った場合には、それほどでもないと気付いたのだ。そして、違和感を覚えた。睡眠時間が長い方が、最後に水分を取ってから時間が経っているはずなのに、と。
 今朝はここまで書き残し、家を出ていた。帰宅し、再び書き始める。前述の渇きについては、「休まないと!」だったり「ライフサイクルが偏ってるよ!」といった身体からの信号なのだと考えてみた。真っ当過ぎる気もしたが、真っ当であるのは間違いじゃないし、何も悪いことはない。それよりも私が、入力(原因)があって出力(結果)があるのを前提に考えているということに目が向かう。ちょっと疲れているとはいえ、これにもまた、はっとした。
 帰宅途中で思い浮かんだことがあった。だんだん小利口になっているのか、毎日新しい文章をこの場所に連ねることができるよう、遅い帰宅時間であっても考えを用意しようという動きが半自動的に発動するようになっているかのようだ。せいぜい仕事にも、こういう動きが是非もっと欲しいものだ。さて、何が思い浮かんだか? それは、プログラム等電子データ(以下、データ)の発動(実行)において、そこにあると感じるニュートラルな状態というか恣意性のようなものについてだった。
 ややこしい言い方をしているかもしれないので、言い換えてみる。データもまたというか、データこそ、入力→出力の典型的な存在だが、出力時、あるいは出力の手前で、利用者や作動者にとってはエラーと捉えられる誤動作やフリーズといった停止状態となることがある。日常茶飯事だという人も多いだろう。かくいう私もその一人だ。で、こういうエラーの状態にある時、そのデータの「内情」を覗けば、実は「エラーになってもいいし、エラーにならなくてもいい」とでも表すことができそうな分岐があって、どちらに転ぶかは数式的に表すことはできそうだが、できるとしても確率論の範疇を出ないという意味で冒頭に挙げた人間の反応よりも、曖昧な原因と結果の関係を持っている――ざっと、こんなことが浮かんだ。データなのに曖昧という状態に、気持ち良さを覚えていることに気が付いた。付け加えるなら、それは往年のファジーとは似て異なり、意図された、用意された曖昧さではないと思いたい。