Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

カラスボタン

 今の住居に住み始めて、半年近くになろうとしているが、今頃気付いたり、今頃知ったということが、まだまだ発生している。小一時間程前、買い物から帰宅していつものように鍵を仕舞おうとしていたら、これまでは当たらなかった照明のリモコンに手が触れた。直接ボタンを押した方が早いこともあり、リモコンは鍵の近くにマグネットで付けたプラスチックケースに投げ込んだままだった。そんな中、今回、リモコンのあるボタンを意図せず押すことになった。
 部屋が華やいだと形容しても大袈裟でないくらい、部屋中が、ぱーっと明るくなった。白色度の高い明るさだ。すぐさま、いいじゃん!と思って、今頃そういう気付きを得る自身の出鱈目さも、いつもよりかは嫌に思わなかった。リモコンを見ると、まさにそのまま、「白色/暖色」の両ボタンがあった。
 白色に対するこじつけではなく、買い物に出掛ける前には、黒い鳥、カラスのことを考えていた。なんせ、ここ数年、その姿を見掛ければ、出来得る限り数秒程度にせよ観察を続けてきた。今日の日中、雲一つない青空の下、その上部に障害物のない電柱の上にカラスが立っていた。青と黒のコントラストが抜群に映えていた。カラスも格好いいが、空とカラスが一体化したようなこの光景自体が格好いいと思った。
 考えてみれば、カラスは様々な自然の中にある原色に近いような色に映える。すぐに秋の紅葉や、季節をあまり問わない芝生の緑や、雪の上が思い浮かぶ。いずれも当たり前のように目の当たりにしてきた。かけがえのない光景であり、数百兆かそれ以上か、ずっと繰り返されてきた光景なのだろう。
 さて、この気付きに留まらずに、この先へと考えを、カラス的に言えば飛翔させねばならないと思うが、次のようなことを考えていた。「CMYKのKがカラスのKなのは当然として、YKKのKだっておそらくそのはず。古くはKGBだって、カラスを意識したゆえのネーミングだろう。さて、ではカラスはなぜ鳴くのか? 山に七つの子がいるからとは限らまい。ましてや、このカラスは都会のアリスならぬ都会のカラスだ。山の記憶もおそらくはDNAレベルで薄まっていても不思議ではない。それほどカラスは、金の卵と言われた高度経済成長期の若者よりもはるか昔に都市に繰り出し、もちろん卵を産み育て、華僑どころではない巧みな生活圏を構築し終えている。またしても、カラスにもさまざまな意図や原因があるから、鳴いているのだという当然のことに行き着く。そうしたさまざまな背景を、七つの子がいること一つに収斂したのが、あの歌の凄さだと気付く。この収斂はCMYKのスミベタがまるでRGBの光に変わったかのような動きに映る。絵画的な言葉はまだまだ都会のゴミ捨て場のカラス以上に転がっているだろう。カラス! こう書くと、同名の政治家の名前を叫んでいるようにも見える点で、政治的だといえる。」と。

 この脱線は、白色度の上でも暖色度の上でも、どっちつかずに映る。自分のリモコンは、自分が偶然押してくれるものではないと思った。偶然に近い必然ならあるだろうが。それは、結局、考えを進めることでしか表示されないボタンだということだろう。そのボタンを表示させ、押すということをしたら、カラスについてもまた違った発見をすると思った。カフスボタンならぬカラスボタンということにしておく。唐獅子牡丹という言葉を数十年ぶりに思い浮かべた。またすぐに駄洒落にしてしまう。言葉の上っ面で文字数だけが進む。もっとも、前述の脱線の中には、自画自賛ではなく、自分ではっとするくらい輝いている言葉を書き残していると思った。それは「絵画的な言葉」というくだりだ。同じような考えなら、数兆回以上、無数の他者によって、繰り返し発想されたことでもあるだろう。それでも、自分だけの言葉にすれば、もっと輝くと思った。あるいは漆黒になると思った。