Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

ゲーム

 ゲームの中に複数の部屋があり、その部屋にはまた別のゲームが用意されている。このような構図を、小学校低学年の頃、天井を外した上部から見下ろしたイメージとして思い浮かべたことがあった。思い浮かべながら、こういうまとまった状態、今思い浮かんだ表現を使うなら、「ゲームのある共同体」が十分成立するはずなのに、何故ゲームはわざわざ一つ一つ別のものとして分かれて存在しているのだろう?といったことを思って、大袈裟に言えば絶望感を覚えていた。最近必要がありWeb3というものについての本を読み始めていて、真新しさというよりも、どこか懐かしさを覚えるのには、こうした想像上の経験が多少は関係しているのだろう。

 ゲームのある共同体と使ったが、仮にゲームがひとまとまりになっているのだとしても、混ざり合ってはいないことが気になる。区分がないとゲームが成立しないじゃないか?と突っ込む自分が現れるが、ゲーム同士が互いに入ったり出たり合体したり分離したりして、都度新たなルールが自動的に生成されていくような、時にはそのルールにプレーヤーあるいはユーザーが参加するようなものが、今はもっと存在感を持っていてもいいのではないか?と思った。それが社会だとまとめそうになるが、安直な気がする。社会はもっと複雑なはずだと思う。その複雑さは簡潔にもシンプルにも感じることができるものだとしても。

 一昨日、電力会社の花壇の前を通り掛かると、隙間なく一面に咲いたソーシャルディスタンス知らずの花々に向かってカラスが嘴を突き刺していた。黄色の花が多かったので、黒と黄のコントラストが鮮やかなはずだが、鮮やかだったのは確かだとしても、それ以上にカラスが花であるかのように一体化している印象を覚えた。スマホで撮影しようとして遅れるのは、いつもこんな時が多い。カラスはゆっくりと1メートル程軽く飛び上がり、電力会社の掲示板の上に留まった。カラスは行為として、遊ぶことがあるという。ゲームについて書いていたから遊びのことが浮かんだが、遊び=ゲームではないなと、両語の一体感がそれ程ないことに気付く。間違いないのは、カラスは私や私のスマホに対してでなかったとしても、何かに反応したということだろう。反応は、ゲームも遊びも包含している言葉だと思う。ゲームと遊びとカラスと自分や世界を一体化させようと想像してみる。逆スクロールできない感じが切ない。