Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

バス

 日中、降りたばかりのバスに追い付き、追い抜くことがあった。経験則だが、バスにしては珍しく愛想の良い、少し過剰かもしれない積極的なコミュニケーションを図ろうとする運転士から2回放たれた「ありがとうございました」を背に降りたら10m行くか行かないかのうちに赤信号で、それに捕まったバスを徒歩で追い抜いたのだった。追い抜きながらすぐ、少しの可笑しさと、それより多いばつの悪さが浮かんだ。
 しばらくして、買い忘れか何かで、会計を済ませて出たばかりのコンビニに再入店し、再度会計に臨んだ時に似ていると思った。どちらも、何も悪いことでも間違いでもなく、主観や自意識の問題だといえばそれで済む話だろう。とはいえ、何故こんな感情が浮かんでくるのか?考えてみた。
 勝手に折り目正しくしようとする、それが求められていると思ってしまう、そういう気分が四季を問わず自分の内には漂っているのかもしれない。そう思うと、間違ってはいけないという圧力を勝手に設けて、それに対し、間違っているわけではなくてこれは偶然なんですよ、と自作自演しているようなイメージが浮かぶ。他人や世間に対しては、「正しいことよりもむしろ、間違っていてもいいから、もっと本当に思ったことを発信して欲しい」などと思って、昔なら息巻いていたところなのに、自分はこのざまかと思う。もっとも、自分を正当化したいからではない意味で「人は誰も」と一般化を試みるが、「人は誰も、外部に対する批判を自分に対しても実行できる」、ややこしい言い方をしたが要は、「人に直せと言っていることが自分にも当てはまる」ということだろう。自分ができていないことを他者には求めているということだ。
 「いいや、そんなの当てはまらない人だっている」という意見はあるだろう。その意見は正しいだろう。一例でも例外があれば、その仮説は成り立たないはずだが、それで明快となるどころかすっきりしない気持ちの方が強い。数理的な判断は時に感傷に浸って腐りかけていた気持ちを勇気付けてくれることもあるが、正しいことを提示して、数値化されていない肝心の問題をごまかしてしまう一面もあると思う。一例どころか何万人という例外があるにせよ、その数百倍か数千倍か分からないが、当てはまる人の方がはるかに多いように思ったのだ。具体的な数値ではないにせよ、これも数的なもの、比重を根拠にしている面は否めないから、結局数理かとなって依然説得力に欠けるが。
 ともかく、自分の日々の行動の中に、大袈裟かもしれないが、生後の、もしかしたら生前からの歴史的な自分の成分が表れているということだと思った。歴史と書こうか時代と書こうかと迷ったが、すぐ歴史とした。この場合、時代は歴史の下に属するものとして位置付けている。時代は拒否できるかもしれないが、それはそれで相当難しいだろうが、歴史は拒否できないはずだと思うからだ。時代は追い抜いても、歴史は、と書こうとして、嫌な纏め方だと思った。
 もう一つ、多くのバスで、次はバスの最終到着駅となった時、「降車ボタン」は押さなくても確実に停車して降ろしてくれるわけだが、その時点でそのボタンを押してもボタンは他の駅に着く前と同様に点灯し「次停まります」のアナウンスが流れることが多い。そういう最終駅まで乗車している場合に私は、なるべく意識的に、そのボタンを押すようにしている。単なる融通の利かない機械の一反応と済ませるのは何か勿体無いと思って、数年前からそのままにしてきたことだった。今もこの事象に対して、もっと拡がりや展開のある仮設なり、考察は見出していない。到着する場所や追い抜く場所が多いとしたら、乗り込む場所というのも、沢山あるものだ。降車ボタンは乗車ボタンでもあるということか。