年末の11月くらいになると、手帳の中を開けて、巻末など未使用で残っているページが気になり始める。年末の予算消化のための道路工事と似ているなと思いながら、春や夏からどんどん何かを書き残して使っていけばいいのに、どこかセーブしていたなと毎年のように思う。この場所のようなWebとは違って、定量的に把握できる気がする紙の上で、どこか滑稽な感情を立ち上げている。この場所の別の記事では、文字の上に文字を書き残したいと言っている一方で、空白を埋めたい気持ちがあるのも滑稽に思えてくる。
先日から、そうした未使用ページに書き残していたものを眺めてみる。紀行文(旅行記とした方がいいかと思ったが、むしろ大袈裟なようでやめにした)についてのメモを残していた。こう書いていて、文章のつながりについても気になり始める。というのも、いつも大体、書き残したいことはいくつも浮かぶものの、それをどのように一つの文脈にするか? で自動的に悩み始めていたからだ。続いて結局、考え抜くことから逃げて、自身が忌み嫌う列記形式ででも残していた方が余程いいのではないか? と自分で自分に突っ込むくらい、異なる文脈の一要素に思えるような一文同士を、自然なつながりとなるように、つなげよう、つなげようとあくせくしていた気がするからだ。そんなわけで、この冒頭の未使用ページから紀行文へと向かう記述に、次のような展開が思い浮かんだ。
こうした、未使用ページがある→それを埋めようとして今日は〇〇について書き始めた、というイントロで文章がスタート→〇〇の記述を一通り終える、あるいは中断の場合でも、ここまで書いたことを振り返って感想を述べる。でも再び未使用ページが放置される→未使用ページを放置している間に発生した全然別の出来事から気になることを挙げ、述べる→再び空白ページが気になり、今度は□□について語り始める。以下、繰り返し
ここで、〇〇や□□や「未使用ページを放置している間に発生した全然別の出来事」って何だ? それらをはっきりさせることも大事ではないか? という突っ込みを入れる自分も現れる。この突っ込みは、上述の流れについて考え抜くことからの、またしても逃避である一面は否めないだろう。しかし、散々逃避という同類のことばかり繰り返し述べているのが嫌になってくる。〇〇に何かを代入しようと思ってようやく、紀行文を忘れていたではないか?! と元に戻る。
紀行文について私が気になるのは、旅程や旅の中での出来事や結末を、別の文章や口述やYouTubeなどの動画を通して既に知っていたとしても、文章として新たに、どこか能動的に読み直すことができる、そういう読み方がしやすい、という個人的な体感のことだ。もちろん、全ての紀行文というわけではない。そこで、少し考えて、「では、逆に、読みにくいものは?」と自問した。結末を知っていようがいまいが、読みにくいものを特定しないといけないと思った。もしかしたら、結末を知っているということはそれほど重要ではないかもしれず、自分勝手にキーファクターとして仕立て上げてしまっているかもしれないからだ。
その結果、浮かんだのは、「小説の中の小説」というものだった。実体験ではっきり、この小説だというものが即浮かぶわけではない。それでも、十年位前か、小説を試作しようとしていて、その中で展開しようとした小説に着手しかけてすぐ、「小説、つまり、非現実だと既に明らかになっている時点で面白く感じないな」と嫌になって中断したのを思い出していた。
先の紀行文と、この小説の中の小説を対比してみた。実体験であるか否かが、どうしても、二者間に覚える対照的な感覚の分岐点となっているように思った。でも、それではもっとも過ぎて、何も説明できていない気がした。そこで、今度は「読みたくない紀行文とは?」と自問してみた。
今度は、心象風景ということではなく、その時の感情を表す風景が描かれていないものという定義めいたものが浮かんだ。ここで、非現実の旅行というのは、ループのようで単なる思考停止に思うので、取り上げないことにする。感情を表す風景だが、別に心象風景も一緒に描かれていても良いとは思った。しかし、風景の記述が列記的に並んでいても、それが筆者のその時の感情を表す度合いが高いと映るものであれば、読者としての私は、俄然、嫌いなはずの列記形式を忌み嫌うことなく、紀行文として読み進めるだろうと想像した。これについても、具体的な読後体験を思い出したわけではないが。心象風景よりもどの風景を切り取ったかの方が心象を伴いやすいのではないか?―矛盾だらけの言葉にも映るが、そう思った。どんなに感情を黙殺するかのように無機的な描写を心掛けても、風景の選択自体が感情的なのだと思った。別の記事でも書いたが、選択という言葉は好きではないことが多い。でも今回、未使用ページ、紀行文、旅といった言葉が喚起したこともあって、選択に対し、配分という言葉も浮かんでいた。この文脈の場合、配分よりは選択の方が綺麗な言葉だと思った。
書いている間の気持ちを、アルブライトといった特殊紙のように、蒸着して残したいとも思い始めた。ここで、「も」を使ったことが気になって、保険をかけるような物言いだからだと思った。はっきりしないのは、どこにいても同じなのが世界というものだろう。それゆえにはっきりしている―こうした物言いならすぐに反射的に浮かんでくるのが嫌にもなる。また、使った。こういう場合、前に戻るべきだと、「書いている間の気持ち」に目を向ける。「書かなくても残る気持ちがある」という言葉が浮かぶ。明らかに、前述の風景について思い浮かんだことを繰り返している。「気持ちもある」としておらず「が」ですっきりと言い切っているように見えた。そして、未使用ページよりも未使用な言葉を使いたいと思いながら、書いている間の気持ちは、手帳のどの未使用ページよりも真っ白に失われてしまい残らないとも思った。