Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

永代通り

 名前からして真っ直ぐな感じがする永代通りを、最近よく歩いていて、もう一月以上になる。たまたま何気なしに1駅分歩いてみようと、いつもの改札への階段を降りずに、地下鉄と平行になって続いているこの通りを歩き始めたところ、思いの外気持ちの良い時間が流れたのがきっかけだった。その日は、気付けば5駅分歩いていた。

 なるほど、それ程の気持ちの良さはどこから来るのか?と考えてみて、それは普段なかなか動かしていない身体を動かすことからだけではなく、視覚情報からもやって来ているのではないかと思った。というのも、エンドルフィンだとか、何かホルモン分泌のみを理由にしたくなかったからだ。もっと、自分の意思で、気持ち良さを選んでいるという実感が欲しかった。

 そこで、ホルモン分泌だけでないことを実証しようと、過去の記憶の中からではあるが、他の通りを同じ位歩いた場合と比べてみることにした。

 全く同程度の距離という比較事例はなかなかないのだが、幸い、青梅街道の荻窪-中野坂上といったものや、環八通り荻窪高井戸といったものならあった。いずれも、永代通りのそれと比べると、気持ち良さの面では劣っていると感じる。土地柄を否定するものでは決してないし、むしろ永代通りよりも身近な地域で好感も持っているにも関わらずだ。

 永代通りは、私にとって未だ新鮮だからかもしれないが、先に挙げたとおり連日歩いて一月以上となる。それでも一向にこの気持ち良さは減っていかない。それに対し、より身近な青梅街道や環八通りには、どこか閉塞感を覚えていることに思い当たる。それは言ってみれば、延々と変わらない状況が続いていて、進捗感に乏しいような類のものだ。そして反射的に、永代通りにも同類の閉塞感はあるのでは?と自問したが、即座に俄然進捗感があると自答することになった。

 では、この進捗感とは何に起因するのか?それは、歩きながらあちこちを見渡したり、身体を通して知覚する(観ている)情報はもとより、歩くや眺めるや考えるといった行為の豊富さ、言ってみれば、ながら歩き感ではないか。自分の意思で選んだ気持ち良さがあるとしたら、歩くために歩くだけではない、このながら歩き感が該当しているのではないのかと思った。決してだらだら歩くのではないが、あちこちを眺めてもいるという。あるいは、あちこちを眺めることを目的としているのではないが、確実に進みながらも、あちこちを眺めているという。この度合いが、私にとっては、青梅街道や環八通りよりも永代通りの場合、圧倒的に多いのではないかと思った。

 そんな永代通りの光景で、興味深いものがある。それは、永代橋までのどこか地方都市が連続して出現しているような賑やかさと、永代橋を渡った後、一気に加速する東京っぽさのコントラスト、あるいは断層といった決して緩やかなグラデーションとはいえない繋がりだ。この、似たような光景の連続から、一気に大都市が出現するという一連の流れ自体が、地方っぽいなとも思う。もっとも、全ての地域は一地方だと、政治的、経済的中心を抜きに、単なる土地として眺めてみれば、言えるのだが。

 こうした、実家というか、これまで経験した東京以外の地方での時間を呼び覚ましもするような時間もまた、永代通りを歩くことの気持ち良さに繋がっているのかもしれない。あるいは、話は大きく広がるが、生物の進化のように、都市の進化の過程を、わずか1時間程度とはいえ、体感出来ていて、そのこともまた理由になっているのかもしれない。いずれにしても、真っ直ぐでありながら、あちこちに目や身体や思いを巡らせられる、複数の異なる目的が流れている時間が、私が歩く永代通りにはあるということだと思う。淡々としながら濃密でもある時間というのが、矛盾しているようで、なかなかいいなと思った。

 時間といえば、ここで思い当たる事が、また別にある。それは、時間を可視化しているもので最も身近な時計に関する光景だ。それは、アナログでもデジタルでも、以前から何気にやっていた一人遊びで、自分がふと時計を見た瞬間、秒針(秒表示)が変わるのか、あるいはその逆に、今変わったばかりなのか(それゆえ、前者と比べると、次の秒を示すまでの時間を若干長く体感出来る)を時計を眺める直前に選んで当てるというものだ。

 前者の場合と後者の場合では、当然次の秒を示すまでに流れる時間が異なるのだが、その違いが心地良くもあった。前者の場合は、阿吽の呼吸というか、何か時間と会話したかのような気分になったし、後者の場合は、時間を止めたかのような、サーフィンのように時間という波に乗ったかのような気分になった。これも、淡々としながら、濃密でもある時間を示しているように思った。

 DCよりはACというか、単線よりは複線というか、ともあれ、ながらを求めているのが私ということだろうか。

 さて、同じ永代通りで起こったことではあるが、とある仕事関係で、私はビジネスバッグに収まらない位長い定規を使用していたことがある。今にして思えば、永代通りをコンパクトにしたかのような長さだとも形容出来る。さて、その仕事も終了となり、バッグからはみ出た定規を持ち帰ろうとしている時、とある同僚が笑いながら「はみ出ている」ことを指摘してきた。確かに、不恰好といえば不恰好だが、てんで気にもしていなかったので、私には、それをいちいち指摘してくるという彼の資質が気になった。そして、とっさに「杓子定規だね」とか「お互い、腹が出ることの方を気にしたいね」とでもいえば良かったのが、そこまでの余裕は持ち合わせないまま、彼の方が、形骸化して固定化した尺度という定規なら、はみ出ているのではないか、それにも関わらず、はみ出さないことに重きを置いているのではないかと思った。

 はみ出さないことが目的となると、とたんに閉塞感が漂うと思う。真っ直ぐなだけではつまらない。真っ直ぐな定規だろうが、曲がった場所も計測出来る巻尺であろうが、既存の尺度でのみ計るのなら、つまらない。でも、それがながら歩きを可能にするということなら、真っ直ぐな定規も巻尺も必要だ。計り、計られ、ばかりではなく、計りを新たに作り出すとしても、計らないことで計り合うこと、計り合うことで分かり合うこと、分かり合うことで計り合うこともあって良いのではと思った。気持ち良さに至るものとして、ホルモンのような生得的なものばかりではない、それ以外のものを一つでも増やしていけば、見えない永代通りなるものもまた伸長するのではないかと思った。

 

追記:

 (1)かつて発表された素敵な楽曲に「表参道」というものがあるが、記事のタイトルを当初何気なく通り名だけにしようかと考えて、すぐにこの楽曲を思い出し、「永代通り」こそ相応しいと、晴れて確定となった。ながら歩きに似て、色々意図したいことや、課題や、あるいは気付いてもいないことも含みながら、通り名だけでも成立していると思ったからだ。

 

 (2)眺める位相にはよるのだろうが、例えば創作といわれる分野でも、長文より短文のものが生み出されているように映る。これを推し進めれば、長文が書かれにくい時代というようにも、仮定出来るのだが、ともかく、ここで話を終わりにすると、まるで長文の方が短文よりも偉いかのようなニュアンスが生じているだろう。

 私はここで、短文が多く書かれるのは、これまた、ながら歩きに似ているのではないかと付け加えたい。宛ら、みんなで通りの拡張工事をしているような気がしてくる。