Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

乗り込んでいないのに飛行中

 空港まであとラスト1マイル的な場所でシャトルバスに乗り込む直前、ペンキのような鮮血が路上に散らばっているのが目に入った。すぐ傍に、初老の女性が男性数名の介抱を受けながらうなだれていた。その時、バスの扉が開き、私は乗り込んだ。 堪らない気持ちになりながら、簡単に自分のことで精一杯になるものだと思った。余裕を持ってホテルをチェックアウトしたので、フライトにはまだ 1時間超の余裕があるのだが、それでも遅れたらいけないと、今思い浮かんだが、まるでオイルショック時、トイレットペーパーに群がる客のような姿勢で行動している。

 立ち止まって心配しながら眺めたところで、野次馬でしかない。それでも、恐ろしいことに、前ポケットのスマホで撮影する気持ちが0.000001%位とはいえ、なかったか? と自問すると全くなかったとは言い難い心理状態だったと気付いた 。もちろん、そんな行動は絶対にしないと今断言できるし自信を持つべきところではないが自信もある。あまりにも、対岸側でいようとする眼鏡を全身が身に纏っているのだと思った。

 昨夜、滞在数日目を迎えて、街の中での行動にも慣れてきたなと思った。少しばかり足を延ばして、危険とされる場所も通った。再訪となった店でビールを飲み終えて夜の街を歩きながら、こういう危ない場所を歩くことができている、という恥ずかしい高揚と自己満足も覚えていた。後ろから抱き締められ、バッグを強奪されでもしたら、途端に真逆の反応を示してしまう、砂上の楼閣以上に脆い感情群が濫立していた。

 少し前に、とある定期的な募金を止めたことを思い出した。自動的に引き落としされる募金で、主にはアフリカの子供たちを中心の対象として、 彼らの治療や生活品や学校建設のために使われるという募金だ。2 年あまりは続けたろうか? こう書くくらいで、要は他人事の度合いがとても高い。これまた対岸だ。募金と引き換えに考えることをやめることができる、だから募金をしていると認めたくないが、私にとってはずばりそういう構造になっていた。それが嫌だなと募金を止めた。でも、それから如実に、それまでとは対照的に、彼らのことを考え始めたか?というと、それまでと殆ど何も変わらない。

 今回の通り過ぎた行動も、この募金の停止のようだ。すぐに忘れる。鮮血の重い色を無駄にするように。自分にちゃんと乗り込んでいないのか?と思った。ていのいい観察と表現なら墜落することなく、飛行し続けている。帰国へと向かう。