Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

ひとまとめ

 会社の大掃除の最中、自分の過去のノート群と久しぶりに対面した。いずれも打ち合わせ時のメモや打ち合わせ後浮かんだ断片的なキーワードやエクセルやパワポで作成する前の図表を書き残したもので、基本的には下書きの役割を果たした後は時系列的にロッカーにしまい込んでいた。十数冊あったが、本日そのうちの3冊を引き上げ自宅に持ち帰った。いずれも、数ページ、仕事とは関係のない、この場で書き残そうとしているような文章が残っていた。それを元に、続きを考えてみようと思ったのだ。同時に、こういう偶然に頼ったような書き始めで良いのか?と否定的なことも浮かんでいた。でも、すぐに煮詰めたら同じスープになるような感じというか、何をきっかけにしようが、ある地点を超えるまで考え抜いたら、良い意味で結局同じ内容だったり、内容は異なれど同じ構造だったりといった、少なくとも自分が苦労する分納得も覚える考えを文章化しているのではないか?と考えていた。
 自分の部屋もまた先日来、ひとまとめになった紙類がテーブルを占拠している。内訳は、この一、二年に立ち寄った旅先で入手したパンフレットやフリーペーパー、行政の発行する新聞、映画や展示会のチラシといったもので、入手はしたのにすぐに熟読とはならずに、全く読んでいないものも少なからずあることに罪悪感のような感覚も覚えた。いずれも引き出しにとりあえずのようにしまっていたものだ。会社では、私に限らず多くの社員が、こうした掃除の際には無数のクリアファイルに取り囲まれがちだが、それもこの引き出しにしまうのと似たとりあえずの格納、仕分けした気分、といったことが元になっている場合が多そうだなと思った。
 ひとまとめと書いたが、気持ちとしては、ひとまとめに理解したい、集合体としての声を捉えたいと、気色悪くもあるが大真面目にそう思ったりする。楽をするわけではないと自分に言い聞かせつつ、しかしながら一つ一つをこれから熟読するというのも違うと思う。また、ノートの場合も、一つ一つ順番に続きを考え書き残してみるというのも違うと思う。いや、ひとまとめとして捉えた結果を書き残したのち、後は順番は特に決めずに、紙類の場合は読みたいものを読めばいいし、ノートの場合は続きを書くべきと思うものから書けばいい、そう考える方が自分としては正しいと思う。読む対象である紙類についてははっきり、一番いいのは、その場でなるべく熟読して、あとはしまわなくても、何なら資源ごみとして廃棄することになっても良いと思った。もっとも、熟読した後、しまいこんでいるものもわずかにせよあったことには、それはそれで良しとしておこうと思った。
 紙類やノートといえば、随分まだ筆記用具を使って書き記すことができる余白部もまた溢れかえっている。その最小単位のような付箋(これも大掃除の際に大量に出現しがちだ)はともかく、B5やA4サイズのチラシの裏面、私の場合だとノートの1ページ目や最終ページを白紙のままとしていることが多いのだが、そうしたノートの未使用のページが存在感を放つ。
 記録という意味で書き残すことができる、こうした余白のいずれも、生まれてこのかた減ったことはないと思う。書く機会は?となると、減るわけでも増えるわけでもなく、ほぼ無限のようにいつもあるのだと思う。余白を使用するだけではない方法での記録の仕方も必要ではないか?と思った。もっともこれは入力で単純に置き換わるものでもないだろう。一対一や一問一答だけではない、やっぱりひとまとめという言葉を使うが、捉える場だけでなく、言葉として出力する場でもひとまとめが必要だと思った。