Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

30分睡眠

 昔、というのは20代ではあっただろうか、おそらくその頃、沢山テーマの異なる文章を一日だとかひと月だとかといった短い一定期間に複数まとめればまとめるほど、次の回のいずれの文章も研ぎ澄まされていく、といった独善的な確信を持っていたことがあった。回りくどいので端的に当時の言葉で言えば、「連載を沢山持っている作家は、良い文章をより書くことができるようになる」という単純なものとなる。この考えを、現在もそのまま信じているわけではないにせよ、エッセンスとしては、まだ自分の中に残っていると感じる。先程そう思って、書き始めた。
 見過ごせないのは、当時思っていた文章の量と、現在の量とでは自ずと違う方向に向かうのではないか?ということだ。当時ははっきり、原稿用紙にして数十枚だか十数枚だかを一日に書き終えるといった量を想定していたと思うが、今はどうか? そう自問してすぐ、「いいや、量ではなく質だ。短くても、これまでの当人の文章に当てはめたらその何倍もに匹敵するものを書いているのであればそれで一作品と言ってもいい、そういう作品を短期間に複数残すということを続ければいい」といった回答が浮かんできた。
 どちらか一方のみが正しいわけではなく、どちらも必要だと分かる。可処分時間的な制約から、物理的に捉えることができる原稿用紙換算での量は担保できないこともあるだろうが、強調したいのは量が質のための端緒になるはずという確信だ。この量について考えていて、量に比例して自ずとそれまでの文章にあったものとは異なる要素が混じる確率が上昇すると思えるが、この異なる要素の混入ということはすなわち、合金的というか、錬金術的というか、異素材同士を元にした新素材的というか、もっと簡単にいえば、デコポン的であるということで、文章の質が向上する時に関わる度合いが高いものではないか?と思った。
 それにしても、ここまでが伏線という名の言い訳のようだが、仕事が忙しくなり、勉強も忙しくなってくると、可処分時間というものを、否が応にも意識するようになる。「こういう状況の中でこそ、もっと自分で自分を忙しくするのだ」とやるべきことをむしろ増やすということも、文章の質を上げるだろうと考えたこともあった。これは、十数年くらい前に浮かんだ考えかもしれない。その頃、ランチ後、ほんの30分程にせよ意識的に休憩時間を仮眠時間に充てていたことがあったのだが、それほど時間を要さずにうとうと出来るようになり、数カ月だったか、一時期すっかり習慣化していた。その時、割と最初から感じていたのは、仮眠する方が起きている時のままより、しんどいということだった。結局、昼寝をするのはやめ、むしろ、意識的に忙しなく残りの時間を過ごすくらいになった。最近だと、職住近接のおかげもあって、食後は色々な調べものだとか、この場所のためのメモだとか、音楽鑑賞だとかを織り交ぜているが、詰め込むほど良い意味で時間が伸びたような実感を得ている。さて、この30分睡眠を設ける方がしんどいというのには、別の条件も加わっているのかもしれないから、一概には言えないし、ネットやメディアで語られている「短時間の睡眠や昼寝の驚くべき効果」とは相反する非常識な言い分というものでもあるだろう。確かに、そのしんどさを通過すると、元に戻ってだんだん調子が出てくるということではあったかもしれないから、この30分睡眠の効果は否定はできない。ただ、起き抜けのしんどさは今でも身体が覚えているような、辞書にある気怠さとはこのことだといった実感は残っている。前置きが長くなったが、突き進む方がはっきり良さそうだ。どうやって、可処分時間の量はそのままに文章の量は増やすか?という問いに直面している。最初から質に走ることはしない。この場合の質とは、さっきの30分睡眠と同類のように思えてきた。