Kを発音したくなったり、ならなかったりする。

knowの中には今が、knightの中には夜が含まれています。そんなことより、私が好きな人はローマ字にした際Kで始まる人が多いんです(あるいは多いknです?)。そうそう、傘もKでした。" Kといえばカフカの「城」の主人公が・・・" と口にしがちだった多感な頃よりは私も大人になった、あるいは自由になったと思いたい一心で開設しています。同じことしか書けないなら同じことを増やそうと思います。

手帳は高橋?手帳は本

 この場所が日記的になりつつあったが、元々どんな文章も日記的ではあるとしたら、もっと物理的に日記的なものに手帳がある。1月はじまりの手帳も4月始まりの手帳も、いずれもこれまで購入して使用してきた。手帳の切り替えで上手くバトンタッチ出来ないことが複数回あったが、その原因は盗難だった。4年近く前の2020年5月には盗難に遭い1月始まりの手帳を失い、4月始まりの手帳を購入した。こう書いて文字として眺めると、手帳や文字が命を帯びている度合いが高まって、巻き添えにしてしまい申し訳ない気持ちも沸いてくる。
 その一方で、購入時には物として消費するための一商品として購入している度合いが高かった気もする。その証拠に、現在の1月始まりの手帳を使って今月末で2カ月目となるが、先月からどうも使いにくさを覚えていた。理由は明白で、前手帳とは異なるレイアウトが、メインのページには使われているからだった。記載スペースが狭いのだ。ちゃんと確認して吟味して購入すればこういうことにはならないのだが、近所の書店の手帳コーナーにて、同じような外観と中身のページでは冒頭のレイアウトが同じということで、ぱっとカゴに入れていた。
 今なら買い換えるのもありかと思い、無理に一年共に過ごすこともない、でも悪いことはした、という考えが続いて浮かぶ。そして、こういうのはどうだろう?と浮かんだのは、現在の手帳は手帳ではなくノートとして使えばいいのではないか?ということだった。これは、手帳を使っていて以前から可笑しく思っていたこととも関係しているだろう。それは、手帳の余白、記載スペースを十分に活用したということは毎回ないままということで、年度の前半は、何だかスペースを後に残しておかねばならないといった省エネの気持ちも働くのか、ちびちびと記載していながら、年度後半になると、意外と残った記載可能なスペースに気付き、こんなのならもっと使っても良かったなと思いながらまた数カ月を過ごし、年末になるといよいよ慌ててそのスペースを文字で埋め始めるという自分の癖のことだ。考えてみれば、前回別の場所で書いた通り、日常は記載可能な場所に満ち溢れている。それなのに、紙を一冊に束ねて、そこにグリッドで囲ったり線を引いたりして時系列というものを視覚的に捉えやすくした手帳やノートが依然求められているというのも可笑しいものだ。隣り合っている紙同士に意味を見出すのを当然と思っているのか、手帳は本棚に本として収納すべき気がしてくる。でも、こう考えると、ビジネスというか仕事のための記述もまだまだ変化を設けられそうだし、ビジネスなのに私的作品でもあるという二律背反だと思っていたことを共存できそうで、面白くはなる。眠ろう。